アドラー心理学「勇気づけ」で
「自分の問題を自分で解決できる能力がある」子どもたちのお手伝いができるよう日々鍛錬中

2016-12-28

個人の主体性

2016年は4月にアドラーギルドの講義を受けて、直接、野田先生の講義を聞いて、難しいところもまだまだあるけれど、自分なりに勉強を深められたかなーと年末に思っています。




子どもと一緒に見てたディズニーの番組
キャラクターの動物2匹で雪で作った家に、他の1匹が操縦してたソリが突っ込んできて、雪とともに飛んじゃう、そんなシーンがありました。

その時、瞬時に私が選んだ感情は怒り
せっかく作った家を壊された2匹は怒るだろうなーと思ったわけです。

でも、このディズニーのキャラクターは笑いました。
苦笑いでなく、飛んだことを楽しんでキャーという全開の笑顔。

個人の主体性から考えると、同じ出来事から、私は怒ることを選んで、ディズニーのキャラクターは楽しむことを選んだということ。

アドラーを学ぶ前なら、「何で笑ってるのよ、そんなのおかしいわ!」とバッサリ裁いていたと思います。
感情を選ぶのは自分というのを学んだ今は、「出来事(エピソード)のいい側面に注目すれば、楽しめるんだなー」と思いました。


悪い面にばかり注目してマイナスの感情で過ごすのか、良い面に注目してプラスの感情で過ごすのか、どちらを選びますか?
私はプラスの感情で過ごしたい。来年はプラス>マイナスで過ごせるように、自分の目線を変えることに励もう!







妻夫木さんが出演しているグリコのCMで「子どもは1日平均400回笑う」のに対し、「大人になると15回に減る」と知りました。子どもは楽しいことを見つけるのが上手いんだよね。我が家の子ども達もそう!子どもから学ばせてもらおう。

2016-12-23

内的葛藤

アドラー心理学は個人の主体性、目的論、全体論、社会統合論、仮想論という5つ基本前提から成り立っています。

それらの一つ一つを紐解いて教えていただく機会がありました。
学び続けて3年が過ぎましたので、それぞれの考えをストンと理解できるところまできましたが、

全体論として、心と身体、意識と無意識、感情と考えなどの間に矛盾や葛藤がなく対立しないとしているということ、「内的葛藤なく」を理解するということは色々と自分のイヤ(と考えている)な部分にも向き合う必要があるな~と感じています。


娘の幼稚園には発表会があります。
年長は代々、同じ劇をします。年中の頃から、年長さんがする劇を見て、それぞれに憧れる役などがあったりします。

役の決め方は立候補で、立候補の人数が多い場合はどのように決めるかを子ども達が相談をして役が決まるそうです。子ども達がどうして決めるかを相談すると、「じゃんけん」になるそうで、結果的に、じゃんけんで配役が決まるという娘の幼稚園の劇です。

そういう舞台裏を知ってはいるものの、自分の子どもたちがどの役になるか気になります。
娘はやりたかった役、第1希望、第2希望とじゃんけんで負けてしまいました。でも、決まった役に不満をいうことなく、一生懸命に練習しております。

その一生懸命な娘を見ても、第1希望の役になれたらよかったな~残念だな・・・とモヤモヤする気持ちがあります。

娘が頑張っているそれだけで十分だと理解しているつもりなんだけれど、モヤモヤするのは、第一希望の役をやってやってほしかったと願っている私がいるからなんだろうね。「内的葛藤なく」ととらえると、モヤモヤの感情と考えに葛藤がないのが紐解けるというわけです。

娘が頑張っているそれだけで十分、シンプルなこと、「足るを知る」が必要なんだろうね、私には。

頑張っている娘を応援する、私の目的が分かれば、そこに向かうだけです。




2016-12-09

再考ーゲームのルール

我が家のゲームの付き合い方については記事にした通りでしたが
息子自身、ゲームとの時間の付き合い方が上手くいかないと感じていて、ルールを超えてゲームをしたいと申し出てきたので、再度話し合って考えることにしました。

母からの希望は
1)週に何日かはゲームをしない日を設けてほしい
2)ゲームをするにはある一定の決まった時間にしてほしい
3)ころころとルールを替えることなく、長く自分が守れるルールを考えてほしい

「ゆっくりと考えて、これだ!と思ったら、お母さんに相談して」と言って、

1分後(!)に息子が相談してきたのは

「自主学習をした時間分、ゲームをできることにする」
「週に月曜日と火曜日はゲームを休みにする」

ここから相談をして、

・自主学習した時間というのは分かりにくいので、自主学習1ページにつき5分
・こまめに確認するのは難しいので、19時30分に頑張った自主学習を確認する
・寝る1時間前までにゲームは終えてほしいので、ゲームができるのは20時までとする
・月曜日と火曜日はゲームは休み

となりました。

今までがシンプルなルールだったのですが、複雑になりました。
勉強とゲームをリンクさせたくなかったのですが、お友達の家のルールがこんな風でいいと思ったらしく、息子の希望なので受け入れました。

前のルールより厳しくなったと思うんだけどな・・・勉強に関係なく、30分×5回/週だったんだけど。
ただただ、息子自身が30分×5回の2時間30分を1日で終えてしまうから、週に1回しかできないという状況になったのよねー。
そういう状況にならないように息子の課題と思いつつも、何度も「いいの?」と声掛けしてみたんだけど、自分が招いた結末から学んだことはルール変更だったみたいです。
母としては時間を調整するという学びをしてほしいと期待していたけれど、ま、それはそれでよしとしましょう。




2016-11-28

ゲーム(メディア)との付き合い方

息子の待ちに待ったゲームが発売されました。

我が家にはゲームのルールがあります。
このゲームのルールは話し合って決めたもの。守ってこそルールなわけで例外を認めるのもおかしいと思いながらも、待ちに待ったゲームをその決めたゲームの時間を超えて楽しみたい息子の気持ちはよく分かる。

分かるからこそ、ゲームの時間を守るように伝えるのには少しモヤモヤしました。なんだかいじわるしているような気がして・・・。本当に待ちわびていたのをずっと見ていたのでね。


このモヤモヤを今一度確かめることにしました。

例えば、ゲーム、テレビ、パソコン(タブレット)などを特にルールを設けないで、子どもたちの意思の通りに付き合うとすると、テレビはまるでBGMのように流れ、ゲームもそれほどしたいわけでもないのに暇だからという理由で続けることが予想されます。予想なので、この通りになるのかどうかはもちろん分かりませんが、予想のようなことが起こった場合、私は陰性感情を持つと思います。「いいかげんにしなさい!」と叱る私が目に浮かびます。

私は子どもたちがゲーム、テレビ、パソコン(タブレット)と付き合うのに、ある程度、節度を持ってほしいと願っています。依存する可能性があるこれらの機器に翻弄されるのではなく、子ども自身の明確な意思を持って付き合ってほしいわけです。これはある意味、自立する、社会と調和して暮らすにもつながるのかなっと思っています。


私が育った時代と今とではもちろんこれらの機器を取り巻く環境は大きく違っています。
でも、人が人として育つために、必要なものというのは根本はそれほど大きく違っていないとも思います。
身近にあって当たり前だからこそ、好きなように関わってもいいのか?と自問自答すると、そうではないだろうとも思います。子どもが育っていく時間数は、昔も今も1日24時間で変わりなく、その時間をどのように過ごすのかを考えたとき、ゲーム、テレビ、パソコン(タブレット)と接する時間もあってもいいけれど、それ以外の時間も持ってほしいと考えています。「暇だな~何をしようかな・・・あ、そうだ!」とこんな風に考えて自分から遊びを考え、行動する時間をいっぱい持ってほしいのです。

ゲームをし続けたい息子は真剣です。それに対峙するためにも、「なんとなく」ではなく、私の目的も明確にして応えないと。それに私の考え=目的もはっきりしていれば、モヤモヤする気持ちも晴れると思います。

2016-11-18

ごはんは残さず食べる

娘のごはんの課題はもう一つあります。
私は「ごはんは残さず食べる」という考え=私的感覚を強く持っています。
強く、というのは、家族以外の方達と外食する経験を幾度となく繰り返して、感じたものです。

幸い、ダンナとは同じ私的感覚で衝突することはほとんどありませんが、この私的感覚の強さから、子どもたちとは度々衝突します、特に、娘と。

衝突を回避するために色々と対処してきました。

例えば、 (いー=娘)
その1
私「いーちゃん、これ食べる?」
娘「うん」

その2
私「いーちゃん、どれくらい食べる?」
娘「ふつう」
私「これくらいでどう?」とお皿に盛った量を見て確認する。

それでも尚、時々、お腹がいっぱいになっちゃったとか、思ってた味と違ったとか、残すことがあります。

でも、私は「ごはんは残さず食べる」ことに強い想いがあるので、食べると言ったのに食べないという娘の行動に−4とか−5の強い陰性感情を持ちます。

ただ、その強さゆえに、「ごはんは残さず食べる」ことを絶対的な目的としていました。「許しません」の勢いです。それが衝突を生むわけで、0か100かの白黒はっきりでなく、グレーを目的にすることにしました。

私はお腹がいっぱいでも、自分の私的感覚から、少々無理してでも残さず食べるよう努力しますが、「ごはんは残さず食べる」ことへの想いの度合いは人それぞれで、またその努力の度合いもそれぞれでだからこそグレーでいいのかなっと。

「ごはんは残さず食べる」ことへの私の想いは私の意見として伝え、目的の達成は人それぞれでいいのかな。

どうしても、するかしないかについて、すること=適切な行動には気付き難く、ごはんは残さず食べるにしても、他にも気になる、ゴミをゴミ箱に捨てるも、使わない電気は消すも、しなかったことには自然と気付くんですよねー。でも、必ず、気が付いていなくても、これに限らずちゃんと適切な行動をしている時があるんです、そこに注目を。





2016-11-11

笹の舟で海をわたる

 
 
角田光代さんの「笹の舟で海をわたる」を読みました。
戦争を経験した方とそうでない方とでは全くもって感想が違うのかもしれませんが、淡々とした話という感想です。
 
そんな本ですが、ここで記事にすることにした理由は、母と子どもたちとの関係を色々と考えたからです。
 
ネタバレになるので内容は書きませんが、戦争を経験した母とその子どもたち、育った時代背景が異なり、それぞれが持つ価値観が大きく異なるような気がします。戦争が要というよりもあの時代は普通だった家制度や男女という考えから、今の時代の変化は、その時代に育ったものと大きな価値観の違いを生み、そして、親子でその価値観(私的感覚)を衝突させてしまうことがあるのかな・・・と思いました。
 
母は戦後生まれですが、長男と結婚し、姑と同居。私も祖母と一緒に過ごして大きくなりました。
そこにはもちろん姑とのいざこざがあり、私にとってそのいざこざは嫌な記憶として残っております。また、兄妹で、男はこうで、女はこうでと育てられ、女の子だからという理由で申しつけられることが不可解でした。
 
母が育った環境ではその価値観は当たり前で揺るぎないもの、でも、その子どもたちが育つ環境ではその価値観は大きく変わり、その価値観の違いをお互い認めることなく、話し合うことなく、一方的に押し付けていくと、私的感覚が大きく異なる親子は衝突するのだろうなと思いました。
 
私の母と私についていえば、「そういう考えなんだな」とお互いにいつの頃か割り切ったところがあって、今でも、先祖への想いの馳せ方などで大きく意見が異なるけれど、その話は「ま、いいわ」と大きく衝突する前にストップしています。
 
家族間だけでなく、もちろん社会でも、それぞれが持つ私的感覚は違って当たり前。
正しいとか正しくないとかは共同体感覚に照らし合わせ、それが私的感覚だと思えば、「私個人の意見」と意見は意見だと伝えていく、これもパセージで学んだ大事なことの一つです。
 
 
 


2016-11-04

勇気づけの構え

ご飯をダラダラと食べる娘に陰性感情を持つその目的は何か?と自問自答したところ、
「ご飯をササッと食べてもらって、片付けを始めたい」という自分自身のために陰性感情を持って娘を動かそうとしていることに気が付きました。

ダラダラしているように感じるのは、私の目線。
ご飯で遊んでいるわけでもなく、テレビを見ながら食べているわけではなく、ゆっくりと食べている娘は色々と思いながら、食事をしているのでしょう。それを邪魔するのは協力的とは思えません。

だからといって、1時間近くも食事を楽しまれると、後片付けが全く進みません。
後片付けを始めたい私に協力をしていただきたいと願っています。

「早く片付けたいから、早く食べて」では競合的で
「何時までにご飯食べ終えられるかな?」の質問ならば協力的になるでしょうか?


私の希望に合わせてもらうのではなく、2人で折り合いをつけながら生活すること。一緒に生活を営む者として必要なことだと思います。それを目標にするならば、協力的といえるような気がします。どの言葉を言うにしても、「私の希望の時間までに食べなさい」という構えでは競合的。
まずはその構えが変えられるかが勇気づけか勇気くじきかの違いになるのかな。



先の記事にも書いた「自分のことは自分でして下さい」という言葉にしても、

子どもが自立に向かうための目的でいうのと、
なんで、自分のことは自分でしないの、できるでしょと、できることをしない子どもを責めているならば、同じ言葉でも全く違うように伝わるように感じています。

相手を想っての言葉なのか、自分自身のための言葉なのか、構えというのはちゃんと言葉にのって伝わります。

パセージ、パセージプラスの中で、リーダーさん、先輩アドレリアンさんからたくさん教えていただいた構えの違いについてあの時は「????」だったけれど、ここにきてようやく分かったような気がします。





2016-11-03

口先アドラー

アドラー心理学の構えを身に付けることは日々の毎日まいにちの稽古の結果、「身体の技」として成就するものと野田先生が補正項で書いておられます。

その通りだなーとしみじみ感じております。
振り返ってみると、春頃にも私は自分の構えが変わったと思っていました。でも、気を抜くとすぐに構えが競合的になります。部活に励んでいた学生時代、1日休めば3日後退すると言われていたことを思い出しました。

そして、競合的であると自覚しても尚、やはりすぐに変われるものではないですね・・・。
これも自分の苦手なところを自覚しても、すぐには克服できるものではない、毎日の稽古でこそ、その克服ができるのでしょうね。


見せかけでアドラーらしい言葉掛けはできても、それは口先アドラー。

子どもたちが「お茶」と言うのに対して、
冷静に対処できるときもあれば、
忙しく動き回っているときに

子「お茶入れて」
母「自分でして下さい」

文章にすれば同じ言葉、でも、構えが違うと全く違うということをパッセージでもシミュレーションして学ぶのに、気を抜くと、すぐに競合的になってしまいます。口先アドラーから卒業するため、構え変える。そのための共同体感覚。

共同体感覚に基づく勇気づけ、何となくだけど、「ダラダラとごはんを食べる娘」と「兄妹ケンカをする子どもたち」への代替案はちょこっと光が見えてきた気がします。

こういう言葉なら勇気づけになるかな?と思っていることはあるのだけれど、まだ、構えが競合的であるので、その言葉もまだ残しているところ。



2016-10-28

競合的「私は正しい、あなたは間違っている」

陰性感情に向き合い、自分なりにその時の私自身の考え、構えとも向き合って、幾度となく自分自身を正当化してみたりもしたけれど、私が抱く多くの陰性感情が競合的であることにようやく腑に落ちました。


例えば、

朝の準備をせずに本を読んでいる息子を見て、
「学校に行く時間なのに、なぜ今、本を読むの?準備をする時間でしょ」と陰性感情を持ちました。
この時間に本を読むという行動をしているべきではない、息子は間違っている、私は正しい、と競合的です。

ダラダラとご飯を食べている娘を見て、
「ダラダラしてないで早く食べなさい」と陰性感情を持ちました。
ご飯はダラダラと食べるべきではない、娘は間違っている、私は正しい、と競合的です。

子どもと3人でお風呂に入っているとき、2人がケンカを始めました。
ゆっくり入りたかった私は何度かケンカをやめてほしいとお願いしましたが、聞き入れてもらえなかったので、
「もういい、何度いったら分かるの」と陰性感情を持ちました。
私が何度もお願いをしているのに、子どもたちはなぜそのお願いを聞き入れないのか、と競合的です。

陰性感情のままで口に出すこともありますし、冷静に立ち止まれることもありますが、何れにしても私自身の考えと構えは競合的です。そして、競合的であることにようやく気が付くことができたのです。

競合的であることに気が付けたら、協力的目標に替えていく。


朝の準備をせずに本を読んでいる息子、
でも、振り返れば、私は息子はちゃんと朝の時間の過ごし方を知っているのを知っています。
ただ、今日は本に夢中になり過ぎて、時間を忘れているかもしれませんので、私が協力的になれるのは、「今、40分だよ」と声を掛けることだと思い直しました。

私 「今、40分だよ」
子 「あと5分ある」
私 「そう、5分後に自分で気が付ける?それともお母さんが声掛けしようか?」
子 「お母さん、声掛けして」
私 「お母さんも忘れてしまうかもしれないから、5分のタイマーしておくね」
子 「お願い」

私は声掛けをし、共同の課題にする選択をしましたが、課題の分離で声掛けをしないという選択もあると思います。この選択については、それぞれの親子の関係と、成長の段階と、色々と考えながら、子育ての目的に進んでいて、陰性感情がなければどちらの選択でも構わない。競合的な私は、私と違う方法で子育ての目的に進んでいこうとするアドラーの仲間にも「それで本当に正しいの?」と裁いていたことにも気が付きました。穴があったら入りたい。

このエピソードについては、協力的目標と代替案が見つかることができましたが、ダラダラとごはんを食べる娘と兄妹ケンカをする子どもたちについての協力的目標と代替案はモヤモヤの中。どっぷりと競合的な私を生きてきた者としては急激に変われないので、ゆっくりと落ち着いて考えてみたいと思います。


2016-10-23

代替案(ブレイクスルー・クエスチョン)

「娘が大事なものをなくした」エピソードの自己分析です。
エピソード分析は私には難しいので、ブレイクスルー・クエスチョンで。

1)子どもが不適切行動をしているときの適切な面を探す
・失くしたことを正直に話した
・探そうと思っている

2)子どもが何を学んでもらいたいかを考える
・自分の失敗は認め、回復するように頑張る

3)パセージを使って、どのように対処するかを考える
・12-L 失敗は不適切な行動ではありません
娘は大事なものをなくそうという意図があったわけではありません。冷静ではなかったけれど、その時の状況を聞くと、「箱から出してここに置いておいて、後から片付けようと思っていたけど、忘れてしまった。ここに置いたはずなのにない」と教えてくれました。
こういうことって、自分自身に置き換えたらありますね。
悪い意図があったわけではないのだから、冷静にその時の状況を聞いて、見つけてほしいことを伝える

本当はこのアイデアがダメならもう一つと二つの対処行動を考えるのだけれど、もう一つは自分だけでは考えられそうにありません。

ただ、結局、娘の失敗=ものを失くしたことを、私が解決した=私が探して見つけたのはよかったのだろうか?とモヤモヤしています。
失敗してもお母さんが解決してくれたを経験したわけですから、やはり、娘が主体性を持って見付けた方がよかったかな。そういう意味では課題の分離を経て、共同の課題というちゃんと段取りをした方がいいとも考えています。

翌日に見付けたことを伝えたときに、娘が「ありがとう」と言ったことを思うと、自分がみつけるという責任はちゃんと感じてくれていたようにも思います。となると、娘はすでに私が学んでほしいと願っている「自分の失敗は認め、回復するように頑張る」は学んでいるのか!!!振り返ったからこそ気付けました、娘の成長。




2016-10-21

粘土ワーク

母と私の関係は「そこそこ」と私は思っています。
協力できることはお互いに協力している感じです。
好きとか嫌いとかそういう感情をあまり意識することはありませんが、それなりに心配ですし、元気でいてほしいとも願っています。困ったときは助けるつもりもあります。


さて、先日、粘土ワークに参加しました。
6歳のころの自分を思い出しながら、家族の一場面を粘土で表現しました。
その後、グループの方と色々と家族について語るのですが、
私が作ったその粘土の作品を見て、「お母さんに甘えてて優しい雰囲気です」と抱いて下さった感想にとてもモヤモヤしました。モヤモヤしたというよりも反発を覚えた感じです。


私が作った作品は「夜ごはん後の少しゆっくりしている時間」の場面です。
確かに私は母の膝に座っていて、抱いて下さった感想はごもっともなんですけれど、「これが甘えられた唯一の時間なの」と訴えたかったんです。

母は家で仕事をしていて、仕事をしているときはもちろん遊んでもらえなくって、姿はそこにあるけれど、気持ち的には近くない。6歳のころの私にとって、母は甘えられる存在ではなかったのかもしれません。反対にもっと甘えたかったという気持ちがあるのかもしれません。

ただこの時の気持ちは、7歳、5歳の子どもを育てている今、大きく関わっている気がします。
「甘えたかった」私がいるのにも関わらず、私は子どもたちからの「甘え」を許容できていない気もします。

子どもを産んでから、色々な局面で、私が我が子に抱く気持ちがとても冷静に感じてしまうとき、「私に母性というものがあるのだろうか?」と自問自答することがあります。そんな自問自答を繰り返し、辿りついた答えは、私の子育てはは「母性」からではなく「責任感」からのモチベーションの方がしっくりとくるんです。
「母性」という定義が曖昧ではあるけれど、私の母性を自分自身が理解も体感もできてない気がしていて、これが私の不安だったりもして・・・

何だかまとまりのない文章だけれど、

母は子どもにとって存在が大きいってこと、いい意味でも悪い意味でも。
そして6歳のころの私をずっと抱えて成長しているんだろうな、いい意味でも悪い意味でも。

粘土ワークに参加して、自分と向き合う機会になりました。

 
 

2016-10-20

大反省

娘が私の大事にしているものをなくしました。
大事にしていること、触るのはいいけれど必ず元の場所に戻しておくこと、これをしっかり伝えていたのだけれど・・・

触って、後で片付けようと思ってここに置いておいた、でも、置いておいた場所にないと言い、悪びれた様子も見られず、私、大噴火。

「大事にしているものだから、大事にしてねと言ったよね」
「あなたはなぜ物を大事にしないの」
「こうして片付けないから物をなくすのよ」
「今すぐ探しなさい」
と鬼の形相で矢継ぎ早に責め立て、

泣く娘に「泣かずに探しなさい」と追い討ちです。

こんな風に追い討ちをかけながらも頭のどこかでアドラーではないことは分かっている。反対に分かってるから、いつも「またできなかった」と大反省の繰り返し。

少し冷静になって、日常戻って、娘が寝た後に、もう一度探したら見つかりました。

翌日、
私  「見つかったよ、よかった。これからは本当に大事にしてね」
娘  「分かった」

そして、あ、そうだという雰囲気で、
娘   「見つけてくれてありがとう」

こんな時でもちゃんと感謝できる娘、すごいな。
仲直りのギュギュと怒り過ぎたことを謝りました。

今回のことで、娘はものを大事にすることを学ぶよりも、怒りで人を動かすことを学んでいるんだろうな。ちゃんと伝えたいことは陰性感情を持って伝えても伝わらない。
怒りで人を動かそうとする、私の悪い癖。自覚できているのに、抜け出せない。


2016-09-27

ソワソワしながらの課題の分離

夜ごはんが終わって7時過ぎ
これからの予定を息子にたずねると、「明日の準備をして、お風呂入って、ゲームをする」とのこと。ゲームは遅くても8時には終えることになっているので、それだけを伝えて、私は宿題の丸付け、夜ごはんの片付けなどしながらも、7時15分過ぎるとソワソワしてきました。

その時の私は
「もう15分、明日の準備はいつ始めるのかな?お風呂に入って、ゲームをするなら急いだ方がいいのに」
「時間がないことに気が付いて、ゲームができなかったといじけるかもな」
「いじけたらグジグジ言うし面倒だな」
こんな風に考えておりました。

私は今までの息子の行動パターンから先に起こることを勝手に予想して、面倒が起きるかもしれないことを避けたいんですね。

これって、私の課題です。

気が付いたのだから、気持ちから課題の分離をして、ソワソワせずに見守ることできたらアドレリアンなんだろうけれど、まだまだの私は「早く行動してくれないかなー」と念じながらの見守りです。

そんな気持ちを察してくれるわけでもなく、息子は本を読んだり、妹と遊んだり(ケンカ?)して、時間は過ぎていきましたが、7時25分ごろに、パッとスイッチを切り替えて、明日の準備、お風呂と進めていきました。

30分近くゲームをする時間があったので、約束の8時にゲームを気持ちよく終了し、心穏やかに就寝時間まで過ごすことができました。


息子は息子なりの経験を踏んで、時間を読んでいるんでしょう。
私の時間測とは少し違うけれど、それはそれでよし。

先輩のアドレリアンさんは、こういうときに「子どもはどうするだろうか」とワクワクするそうです。
そこまでの気持ちに辿り着けたら、本当の本当の課題の分離。
それを目標に私も頑張ろう!





翌朝にもこんなことがありました。
夜な夜な、ポケモンGoでポケモンを捕まえに散歩に出ていたダンナさんが、「新しいポケモンを捕まえた!」と息子に報告したところ、

子 「ポケモンGoを見たい」
母 「用意をして時間があるならいいんじゃないですか」

ならばと急いで準備をして出発するのみになったところで、出発時間までの残り時間をタイマーにセットしました。
ちゃんと登校する時間を考えて行動している!
自立の道を歩んでいることを実感させていただきました。

2016-09-23

仕切り直しの「課題の分離」

運動会も終わっても連休で、日常とは少し違う雰囲気ではありますが、21日は登校。

学校、幼稚園で使った給食セットについては

子どもたちは夕飯の後片付けの洗いものまでに出せば、お母さんが洗います。
給食セットを出し忘れることがあるので、お母さんが覚えていたら、「洗いものをスタートすること」をお伝えしますが、お母さんも忘れることもあるので、子どもたち自身が覚えておいて下さい。
もし、この時間に一緒に洗えないときは、自分たちで洗って下さい。

これが、子どもたちと相談して決めたこと。
私が声掛けするのが7割、自分たちから忘れず出すのが2割、忘れて自分たちで洗うが1割で日々進んでおります。

そして、21日(水)、翌日は秋分の日で祭日
私が伝えるのを忘れて、子どもたち自身も忘れているのに気が付いた祭日

忘れていることを伝えるべきか、伝えないべきかを考えて、伝えないことを選択しました。

伝えないことを選んだ理由は 陰性感情がゼロだという自信が私になかったことと、子どもたちに学んでほしいことは別にあると思ったこと、この2点

今でも迷うことがあるけれど、アドラー心理学パセージの心理面の目標の一つである「人々は私の仲間だ」に重点をおき、今、この時に仲間であろうとすると、忘れることを伝えたり、親からが自ら洗うことだったりするのかもしれないけれど、それは「今」その時は仲間になれるのかもしれないけれど、「未来」の時点に思いを馳せると、自分(子ども)自身ができることを親が肩代わりし、学ぶ機会を失ったことになるのかもしれません。

ということで、洗えていない給食袋を「見なかったこと」にし、で伝えないことにし、23日(金)の朝を迎えました。

すると、息子は自分で洗い、ちゃんと準備しておりました。
ただただモクモクと、当たり前のように。

母「あ、きれいなのをちゃんと準備したのね」
子「うん」

こういうことでいいんだと思います。



2016-09-17

運動会終了、課題の分離

天気が心配でしたが、無事に運動会が終わりました。
9月に入り、「天気に限らず体操服で登校すること」と学校から案内がありましたが、毎朝、毎朝、毎朝、普段の服を取り出し、着替えようとする息子に、「体操服でしょ」と言い続けておりました。

はじめの2、3日は「忘れているんだな」と陰性感情はなく、
しかし、4、5日経つと、「また・・・」「いいかげんに覚えなよ・・・」と陰性感情

しかし1週間を過ぎる頃からは、運動会までお伝えすることを自分自身で決めましたので、陰性感情はありませんでした。

言い続けているから、息子は「お母さんが言ってくれるから」を学んだんだろうな~と思ったのですが、運動会が終わるまではこのままで、課題の分離はその後にしようと思ったわけです。

息子は運動会を楽しみにしている様子がなく、練習が休めるなら休みたいと思っているところがあったのです。運動が苦手な私もその気持ちはよく分かり、よく分かるからこそ、安易に休める状況を作ってはいけないという気持ちもありました。


しかし、息子自身の課題にいつまでも関わるわけにはいきませんので、4月の終わりに丁寧に課題の分離をしたように、もう一度、取り組み直しです。

あの時は「よし、気持ちからの課題の分離ができるようになった!」と思ったんですけどね、夏休みを間にはさんで、私の気持ちも後退しているようです。



2016-09-15

帽子がない

幼稚園に行く日の朝。その日はいつもより30分ほど出発時間が遅く、年長の娘が「用意ができたからテレビ見ていい?」と聞いてきたので、「いいよ」と答えて、彼女はテレビを見ながら出発までの時間を過ごしていました。

出発時間がきたので、「行くよー」と声を掛けて、待っていると、「帽子がない・・・」と。

私「どこいっちゃったの?」
娘「ここにあった」
私「じゃあ、探してみたら」
としばらく探しても見つからなかったので、「帽子がないよー」と泣き出しました。

この時の私は「今ごろ何を言ってるの?用意ができたって言ったよね?時間ないんだけど」と陰性感情。時間がない今、問い詰めても仕方がないのは分かっているものの、








陰性感情のまま、


私「どうするの?」
娘「探す」
私「探してもなかったでしょ、幼稚園に帽子を忘れてきたかもよ」
娘「絶対、あったよ。帽子がなかったら、お外で遊べないもん、お母さんも一緒に探して!」と絶叫。


私も探しても見つからないし、時間もないし、「探してもみつからないんだし、幼稚園にあるかも」と説き伏せて出発しました。陰性感情を抱えていましたので、送り出してから、色々と考えてみました、娘に何を学んでほしいかを。


・ちゃんと片付けよう
・用意をしたというのはどういうことなのかを学ぼう


もちろん、こういうことも大事なんだけど、ストンと納得できなくて、考え直してみると「こういう問題に直面した時に、娘は娘なりに考えて乗り越えてほしい」という答えに辿り着きました。


そのための手段が、片付けるだったり、ちゃんと用意するだったり、帽子がないことを先生にちゃんと説明したりなわけで、他にも彼女が考える解決方法が社会で暮らす中で認められるものならばそれでいい。そういう風な答えに辿り着くと、彼女はいい経験をしていると、見届けられる気がします。今回の私の「どうするの?」は怒り口調だったけれど、次回は冷静に声を掛けよう。



ちなみに帽子は幼稚園に忘れてきてました。
「あってよかったねー」と言うと、「絶対あるは昨日の昨日の話しやったわ」と娘。





2016-09-09

朝の時間(テレビ)

朝の時間において、平日の朝にテレビを見ることになぜ私はモヤモヤするんだろうと色々と考えてみました。

1)朝に限らず、ただただテレビが流れているという環境は好きではない
2)特に朝においては、テレビを見ることによって、しなければならないことが進まず、結果、遅刻や忘れ物などが起こりそうなのが不安

私はこれを回避したいわけですから、その目的に向かって、子どもたちと話し合おうと、でも、これはあくまで私の気持ち。共同体感覚に反しているわけではないのですから、私の意見は意見としてわかるように言った方がいいし、

子どもには子どもなりにテレビを見たいと気持ちがあるので、共同の課題にするならば、お願い口調で頼んでみる


母 「テレビで何を見たかったのかな?」
子 「天気」
母 「お母さんは、ただずっとテレビがついていると落ち着かないんだよね、天気が確認できたら、消してもらっていいかな?」

こんな感じならば、1)のただただテレビが流れている環境は好きではないということから回避できるかも。


2)については私の不安なので、「課題の分離」で考えた方がいいのかもしれません。

子どもたちが本当に見たいテレビを朝の時間に見ることにおいて、起きるか起きないか分からないことに想いを馳せる必要がないのかもしれません。そうして先に回避することは、反対に朝の時間を自分自身で管理することを学ぶ機会を失うことになっているのかもしれませんね。

1)の対処方法で共同の課題にならず、子どもたちがテレビを見たいと行動したときは、子どもたちはちゃんと時間を管理できると信じて、「課題の分離」で見守ろうと思います。

2016-09-03

朝の時間

子どもたち、朝は比較的強くて(目覚ましよりも早く起きたり、目覚ましで起きたり、たまに声を掛ける必要がある時間でも、少しの声掛けで起きます)、今のところ起床においては陰性感情を持つことはほとんどありません。

ただ、朝を起きて、時間があった時に子どもたちが思うことはゲームかテレビのようで、これが私の私的感覚を刺激します。

私の育った環境は、ゲームは別として、朝にテレビをつけることがなかったんです。
朝にテレビを見るか見ないかはそれぞれの家庭の判断でよし。
しかし、私はどうしても平日の朝にテレビを見るということにはモヤモヤしてしまいます。

「平日の朝にテレビを見る」ということは共同体感覚には反していないけれど、私的感覚を刺激するというのが正しいところでしょうか?
ダンナも朝にテレビを見るという感覚は持ち合わせておらず、結婚してもここに問題が起きなかったけれど、子どもが大きくなって、「平日の朝にテレビを見る」ということに関して、私的感覚が違う者同士が暮らすことになりました。

さ、どうしましょう。

2016-08-28

夏休み終わり

夏休みが終わります。
先日の登校日に宿題の提出を済ませたので、子どもも親の私も一段落しました。

アドラー心理学の子育てという観点から私の最難関でした「夏休みの工作」子どもの気持ちを進めながら一緒に頑張ったものの、経験値の違いからの気持ちのすれ違いが多々ありました。


「サッカー盤をドームにしたい(オリンピックの影響)」「点数表を作らないと」と、まだサッカー選手も、ゴールも設置されていない、サッカー場だけの状態でも夢が膨らむ息子。その気持ちを大事にしたいものの、「期日が迫っているのに、今、それを言いますか?」と陰性感情の私。「とにかく作らないと」「のんびりしていたら間に合うわない」「さっさと動く」と陰性感情、それも-4、-5の気持ちのまま進めた結果になりました。


気持ちの違いを、陰性感情を使わずに、伝えればよかったのかも、技術的に親の手助けありきの息子の夏休み工作計画で「手伝って」との依頼を最初に受けたからのお手伝いでしたが、どこかで課題の分離で、息子にもう少し主体性を持ってもらうようにすればよかったのかも、と色々と反省しております。

私はこの工作から「自分で考えて、自分で動く」を息子に学んでほしかったということを、今、改めて考えました。

2年生の息子、計画を立てて自分で動くには、まだ経験値が浅く、実際に2、3日一所懸命に頑張らないと作れない工作を1日で完成できると思っていたりするところを私の経験を伝え、息子の「さ、やろう!」の言葉を待っていたらよかったのかもしれません。

課題の分離、結末を経験する、色々な方法で息子は夏休みの工作から学ぶことがあったけれど、結局のところ、課題を間に合せたい私が、課題に介入した夏休みの工作になりました。間に合わなくて、眠たく機嫌が悪く、泣きながら、工作する姿ばかりを想像してしまって、見守る勇気を持てませんでしたね・・・。

ただ、自己評価として+を付けてもいいとすると、-4、-5の陰性感情を息子を操作したことについては、一段落してから謝りました。
「もう少し丁寧に、ちゃんと説明したらよかったね、息子くんなら分かってくれただろうに、ごめんなさい」と。
こんな陰性感情を持って操作した私を息子は許してくれました、ありがとう。

来年は、工作から息子に学んでほしいことをちゃんと定めておこう。
そうすれば、自ずと分かるだろうか、親の私がすべきことが。

2016-08-04

夏休みの工作

週末より帰省です。休みを交代で調整しながら2週間近く子どもたちは家を不在にします。
それを見越して、夏休みの宿題の計画を相談しながら決めたのですが、8月3日に完成予定だった夏休みの工作は未完成です。

今年の息子の工作は「サッカーゲーム盤」です。
夏休み前から「サッカーゲーム盤」を作るという強い意志が彼にはあり、親の私はその彼をサポートしたいと思い試行錯誤しております。

カッターで切り抜いたり、キリを使って穴を開けたり、木を切ったりで、彼の思い描くものの完成には、小学2年生の彼が始めから終わりまで一人で完成させるにはまだ実力と経験が伴わないように思えます。そんな風に思うけれど、「息子を信じていないのだろうか?」とも思う私がいて、どこまでのサポートをすればよいのか自分自身も定められないまま、結局のところ、手を動かすという点において4割近くお手伝いしているかな・・・

こんな親ですが、「勝手には進めない」「指示を与えない」ということは念頭においてのお手伝い。

母「サッカー盤の土台はどれにする?」
子「段ボールにするわ」

母「サッカー選手は何で作ろうか?」
子「プラスティックはあるのかな?」
母「これはおもちゃの会社が作っているからねー粘土を固めてなら作れるかもね?」
子「おおお、それいいね!」

母「ゴールはどうする?売っているかごを使ってみる?」
子「網を編んで作るわ」
母「網を編むの?それはお母さんも作り方が分からないわ。ネットを使うというのはどう?」
子「そうだね、ネットで編むわ」

と楽しく相談しながら、しかしながら頭の片隅に「小学2年生の息子ができるのか?」という想いを持ちながらのスタートです。

ただ「息子にはできない」と決めつけず、大人ならすぐに解決できる方法を指示するのではなく、
できないならできないなりに、また相談をして、やり方を変えればいいわけで、その工程を経ることが大事なのかな?と思っています。

この工作から、息子はできることとできないことと、今の自分の実力を経験することができたし、できないことがあっても、違う方法があることも経験したし、

何よりも自分が考えて、自分で作ったという想いを育ててくれているように思います。
完成品の出来に重点を置くのではなく、作る工程に色々な学びがあるのだろう、そして、親の私はいいところで見守りたいなと思っています。

未完成な工作は、提出期限までの予定を再度確認して、帰省の日までにここまで頑張ろうに変更となりました。
息子の頭の中では、サクサクサクサクと作れるはずだったんですけどね、それも経験。

親の見守りもまだまだ未完成、それも経験?!


2016-07-31

7月終わりに

7月も終わり、夏休みが3分の1終わりました。

息子の宿題をやるぞ!の意気込みも
私の子どもたちを信じて見守るぞ!の意気込み
もどこへ行ってしまったのでしょうか?

ちょっと冷静に落ち着かないと、ガミガミ母さんまっしぐらです。



2016-07-28

愛用の感情「怒り」

アドラーのお仲間さんが参加されたワークの話をして下さいました。
そこから私の愛用する感情が「怒り」だということに気が付かせていただきました。

日頃から「怒りっぽい性格だなー」と思っていたのですが、とってもしっくりきました。
アドラー心理学を学んでみようと思ったきっかけは色々ありますが、この怒りっぽい性格を変えたいというのもその一つ。

しっくりきたときの私の気持ちを具体的に言葉にすると、「長年愛用したいたのだから、怒りっぽい性格もそうは簡単に抜け出すことはできませんねー、ま、諦めずに進みましょう」という前向きな感情でした。


もう少し深く教えていただいたところ、この怒りを愛用する私の最優先目標は「主導権をとりたい」
教えていただいて、そういうことだったのか!と苦笑いやら恥ずかしいやらと複雑な感情でしたが、いや違うとも思えず、少し噛みしめて、今は納得です。


私は家族の中で主導権をとりたいと思って、ずっと行動してきたんですよね。
これは夫との関係を考えたときにも何となく思い当っていたこと(*1)、家族の中では「私の言うことを聞きなさい」と強権を発動しているんですね。


このことに冷静に気が付かせていただくと、怒りが出たときに、あ、私は主導権をとりたがっているんだなーと少しクールダウンできるようになりました。

でも、ある一方で社会(仕事)の中では、主導権を譲ることもできているんです。
上下関係がはっきりしているし、幸いにも、上司にあたる方は責任をちゃんととって下さる方だし、やればできる私もいるわけです。

そういう風に冷静に思うと、色々とアドラーの学習を重ねていく中で、「課題の分離」で家族の課題に介入することから心から手をひけるようになりつつあるのに加え、あれもこれも主導権を握りたいと思わなくてもいいんだよな~という気持ちにもなりつつあります。

それでも、愛用していた感情「怒り」がすぐになくなるわけではないけれど、

以前なら-5の陰性感情を作り出していたものを、-3、-2と小さい陰性感情に持っていけるようにも思えるし、

そして、やっぱり作り出すー5の陰性感情への自分の対応も、立ち止まる術を身に付けられるようにも思えています。


イタイ指摘ではありましたが、色々と自分を考えるいい機会になりました。
「最優先目標に関する一考察」という論文がアドレリアンにも掲載されていて、ネット上でも閲覧が可能です。




(*1) 夫がもう少し家のことについて頼りになるといいのにと望んでいたことがありました。例えば、旅行をするにしても日程を決め、宿の予約から、交通手段の手配から全て私がしているのですが、そういうことにおいて、夫は「何もしてくれない」と不満を抱いておりました。でも、冷静に考えると、私は私の想いやこだわりがあって、そしてその想いを優先させたいと思っていることに気が付いて、夫と私の関係からすると、こういうことにおいては私が動く方が上手く回るのだと思い改めたことがあります。




2016-07-26

正の注目も負の注目も与えないで観察

パセージの3-Rの最後に「正の注目も負の注目も与えないで、子どもの行動がどうなるか観察することです」とあります。

題して「我が家のペットボトル問題」

私たちの住む街のごみの捨て方ルールはかなり緩いのですが、
ペットボトルの捨て方は全国と同じ(?)で中を洗い、ラベルをはがし、キャップは燃えるゴミ、本体はペットボトルゴミとなります。一手間が必要。

この一手間が面倒なのか、ペットボトルゴミがなかなか片付けられず、とにかく中を洗った状態で、シンクのところに置いておくことが多い。

「飲んだら、自分で片付けていただきたい」というのが私の目的なので、シンクに置いてあるペットボトルを見ると、マイナス感情、「いつもいつもいつもいつも・・・いい加減にしてほしい」と。結婚生活10年ちょっとと、ひたすら正の注目と負の注目を与え続けてきました。

夫は一年中、ペットボトルの飲料を飲んでおり、それに加えて、子ども(主に息子)もペットボトルの飲料を飲む機会が増えました。夫も息子もペットボトルの片付け方は知っていて、だからこそ、注目を与えれば解決すると思い込んでいましたが、

パセージには「正であれ負であれ注目を与えると、必ずその行動は続きます」とあります。
だからこそ「正の注目も負の注目も与えないで観察」をする実験をスタートしました。夫にいたっては10年ちょっと続けてきましたし、「必ずその行動は続きます」についても証明されていますしね。




観察をはじめて2週間ほど経ちました。

まず「いつもいつもいつもいつも」と思っていたのですが、「あれ?いつもじゃないんだ、たまには片付けているんだな」ということに気が付きました。

そういえば、「いつもいつも」と怒っていたけれど、「いつもじゃないよ、片付けているときもある」と夫は言ってました。

「たまには片付けているんだな」ということに気が付くと、

夫に「片付けておいて下さい」と陰性感情を持たずに丁寧にお願いできるときも出てきました。
でも陰性感情が出るときはありますので、そういうときは「ストップ」
対処行動は自分で解決することにして、自分でブツブツ言いながら、片付けます。

息子は週に1本ほどのペットボトル消費ですが、飲み終わったのに、机に放置して、食事をとるのに片付けてほしいときは、「ペットボトル、一緒に片付けようか!」と声掛けをすることにしました。

これは共同体感覚を育てていくことを考えた、私なりの対処行動です。

共同体感覚を育てることを考えると、自分のものも他人のものも気が付いたなら一緒に片付けることを学んでほしいと思ったからです。

その時に夫が飲んだペットボトルが残っていたなら、「お父さんの分も一緒に片付けてあげようか」と声掛けをすることにしました。もちろん私も一緒に片付ける。そういうことから学べるのかな~と思考錯誤です。


私自身が共同体感覚を持ち合わせていないことも多いので、子どもたちに学んでもらおうと思うには色々と考えて、そして、私自身も行動していかなければなりませんよね。

どうしても「自分優先」でできないことがあるけれど、一つずつ一つずつ、私の共同体感覚も増やしていけたらいいなと思っています。

2016-07-24

子どもの負の感情

ミニトマトの観察の宿題終わらせ予定日は7月24日

息子に「ミニトマトの宿題は7月24日までになっているよ」と伝えたら、「分かった」と言って取り掛かりました。

そして、取り掛かり始めたところに、ご近所さんから「遊ぼう」と誘われた息子。
「今はミニトマトの観察をしているから、○時から遊ぼう」と返事をしておりました。

遊びの誘惑に負けずに、また、上手に交渉しているなーと思い、その様子を見守っていた後に、息子、なんだか負のオーラです。

近付く妹に「こっちに来るな」と連呼
それが少し落ち着いたかとと思うと、シクシクと泣く声が聞こえてきました。

母「どうしたの?」
子「○時に遊ぶ約束したのに、終わらへんよ」
母「もう書き終えているやんか」
子「上手に絵が描けへんのやって」と

思う通りに絵が描けなくて、何度も描き直しているようです。 (*1)
涙が落ちた上を消しゴムで消したら、ビリっと紙が破れて・・・息子、大泣きとなりました。

ここで、私の感情は-2

何度か経験しましたが、アドラーを学ぶ母として、どういう風に対処行動をすればいいのかが本当に分からない。

泣き止んで、「よし、もう一回頑張るわ!」と前向きになってくれたらいいなと、まずは慰めてみるものの、慰めてもまだグズグズいうから、「泣いても仕方ないでしょ」と結局、私は息子の仲間になれないままに終わるというパターンを繰り返していたので、

紙が破れてどうしようもできないと打ちひしがれている息子に

母「破れてしまったね」
子「破れたらもう宿題ができないやんか」
母「もう一枚あるし、コピーしてもう一枚新しいの作ればいいよ」
子「そうする」
母「今すぐにコピーに行けないから、どうする?」
子「後でする」

少し前向きなったかと思いましたが、向かったかったのは居間とは別の部屋。
そこで、座布団を抱き抱えながら、続くグズグズ。
何でこんなことになったのかーとブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツブツ言い続けておりました。

以前なら、問題が解決したのに、まだブツブツ言い続ける息子に、再びマイナスの感情を持っていましたが、

今回は前向きに無視。
息子が息子自身で自分の感情に向き合うことが自立することだろうと考えました。

ブツブツ言い続けて5分ほど経ったかな?と思ったところで、
友達と約束した時間が近付いてきたので、「友達との約束の時間になるよ、約束は大事だよ」と言うと、少ししたら居間に戻ってきました。

子どもたちが出す負の感情からの行動にどういう風に対応したらいいのか、まだはっきりとは分からないけど、

息子には息子の、娘に娘の、負の感情との向き合い方があるのだろうし、
課題の分離で、そこに介入しなくてもいいかな?

それか共同の課題にするため、
「何かお母さんに手伝えることある?」と聞いてみてもいいかな?

と、色々と思惑していますが、泣くことの適切な面を探すことから、一つ一つ始めてみます。




(*1)息子の頭の中にはすでに完成図があって、その思い描いた完成図が自分で描けないことに対して大きく感情を動かします。成長の段階でこのようなことはよくあり、理想の自分と現実の自分との違いに戸惑いながらも、自分なりに折り合いをつけてきているようなところがあります。しかし、時々、特に絵を描くということにおいて、「これでいい」と思えないことがあって不安になるようです。

2016-07-21

夏休みの宿題の相談

さー夏休みです。
数日前から夏休みの宿題について学校から色々と案内がありました。

小学2年生、2度目の夏。
しなければならないことと、夏休みの我が家の予定(帰省)、全てひっくるめて相談をしました。

母 「夏休みの相談をしてもいいですか?」
子 「うん」
母 「夏休みのうちの予定はね、8月○日から○日までおじいちゃん、おばあちゃんの家に行くね」
子 「ええ、長いね」
母 「宿題を持っていくのは○日でしょ。宿題はどうしようか?」
子 「7月に全部終わらせる!」
母 「そう、頑張る!!」
子 「早く終わらせて、あとはゆっくりしようと思って」
母 「そっか、じゃあ、何個かある宿題をいつ終わらせるか、カレンダー見ながら考えようか」

と相談しながら、プチトマトの観察日記は7月24日、夏休みのプリントは8月5日、日記は・・・とカレンダーに宿題終わらせ予定日を書きました。

息子はこういう風に予定が立つと安心するタイプなので、宿題の話と、楽しいイベントの話と、和やかに話すことができました。

それとは別のところで、夫が息子に「おとうさんは、宿題を7月中に終わらせてあとはずっと遊んで過ごした」と伝えたのが響いたのか、持ち帰った夏休みの宿題に早速取り組んでおりました。

私は息子を信じて、決めた予定日の2,3日前に進行状況だけ確認しようかな。
勝手に息子の課題に介入したらいけないので、確認するときは、「宿題の進み具合を教えてもらえますか?」かな。

1年生の夏休みから考えると息子は大きく成長しましたね。
たぶん、私はただ確認するだけ、そこに陰性感情がなく、その言葉掛けができる気がします。
私もアドラー育児の母として成長を確かめる夏がスタートです。

2016-07-13

「課題の分離」のその後のその後

4月にはじめた「課題の分離」
息子の「できる!」の言葉を信じて進んでおりました。ちょこちょこ忘れ物はしているっぽいけれど、ま、何とかなっているのかな?と思っておりましたが、先日、夏休み前の懇談で先生から「ほぼ毎日、何か一つ忘れ物をしています」という言葉をいただきました・・・

先生とは家庭訪問の際に、「経験から学ぶこともあるので、学校の準備については見守ることも必要と思っています。」と伝え、「そうですね、分かりました。」とご理解いただき、その我が家の姿勢を見守っていて下さっていたのですが、やはり懇談の時にはお伝えしておいた方がいいかと思いと伝えて下さったご様子。


さーどうしようか・・・

まずは息子の話を聴くことから始めることにしました。

色々と先生から聞いた頑張っていることの話をした後、

母 「先生からこれから頑張ってほしいことを3つ聞いてきたよ。さて、何でしょうか?」
子 「忘れものをしないこと」

(おおお、自覚しておられましたか!)

母 「そっか、忘れ物しているの分かっていたんだね」
子 「何かねー忘れてしまうんやって」
母 「何を忘れるの?」
子 「宿題をしたノートとか」
母 「ええええ、せっかく頑張って宿題のノート忘れてたん!頑張ったのに、それは残念やろ」
子 「出すのを忘れるんやって」

(何だか、忘れ物の認識がズレている?)

母 「先生は、持ち物を忘れてくることの話をしていたよ」
子 「あああ、それか」
母 「忘れ物をしないようにどうする?お母さん、声掛けした方がいい?自分で頑張れる?」
子 「自分で頑張る」

共同の課題にもっていきたかったんだけど、自分で頑張るといいました。
でも、先生から直接、忘れ物の話をされた身としては引き下がれませんで・・・

母 「うん、頑張れ!でも、お母さんも先生からお願いされたから、最近、連絡帳の確認が毎日できてなかったし、それは見せてもらえるかな?」
子 「いいよ」

先生の方針で、忘れ物をしたら自覚するために連絡帳に忘れたことを自分で書くことになっているのです。だから、忘れ物をしたことに関して、親子で自覚するための提案。

本当なら、共同の課題にすることを拒否されたわけですから、引き下がるべきなんでしょうが、息子の小学校は、忘れ物をしても、あまり困らないようになっているんです。ノートを忘れたらノートのコピー用紙をもらえるし、お箸を忘れたら割りばしがもらえる。

今の息子は学校生活においては「忘れても何とかなる」ということを学んでいるようにも思われ、何だかモヤモヤしているのです。大事な話をちゃんとしたいと思ってはいるものの、そのために私が「子どもに学んでほしいこと」を明確にしないといけませんね。



2016-07-12

色々な学び(アサーション、マザーテレサ効果)

子どものための自分の気持ちが〈言える〉技術 [ 平木典子 ]で、「お互いを大切にしながら、素直にコミュニケーションすること」=アサーションというものを知りました。
 
 
代替え案の言葉かけとして、自分で見つけられるようになるための助けになるかな~と思って読みました。アドラー心理学(パセージ)と同じような考え方がありました。例えば、「不適切な行動のなかの適切な側面を探そう」や「失敗は不適切な行動ではありません」です。もちろん、違うところもありましたが、そこはそこで、それでよし。
 
特に「失敗は不適切な行動ではありません」と学んでも、その後にふりかかる手間への思いが強く、陰性感情を持ってしまうのですが、「失敗する権利」として認め合うことの大切さを改めて学びました。


また、自己表現の方法には3つのタイプがあって、社会の中ではバランスを持っているかな?と思ったけれど、家族の中にいる私は見事に「攻撃的」でした。この攻撃的な自己表現の方法を自覚していたから、アドラー心理学を学んだところもあるわけですが、「やっぱり」と、まだまだ修行が必要と再自覚です。



また、トウリーディングの話を聞く機会があって、そのときに余談として、マザーテレサ効果を教えていただきました。

免疫力が上昇すると実験で証明されている「マザー・テレサ効果」
これはアドラー心理学(パセージプラス)での、「陰性感情をのりこえる」の「同じことでも感情のあり方で意味が変る」につながるのかなと思いました。

アドラー心理学(パセージ)を勉強しても、なかなかこののりこえることの大事さが分からず、陰性感情を抑えればいいと全くもって真のパセージを学んでいなかったけれど、陰性感情をのりこえてこそようやくパセージの第一歩。

「そののりこえかたも少しずつながら、学べてきていてはいるものの、学んだからこそ難しいことも分かってきたところもあるんです」と、自分のもどかしさをトウリーディングの先生にしたところ、私の話をゆっくりと聞いていただいたあと、先生が「何度も「でも難しいんですけどね」と言っていますよ、まだ自分を信じ切れてないみたいですよ、でも、足は変わろうと意思表示しています、大丈夫です」という言葉をいただいて、ハッとしたところです。「私はのりこえられる」と自分を信じ切ろうと改めてきめました。


様々な分野から、色々と学ぶこともあるけれど、私が深く学びたいと思っているからかもしれませんが、アドラー心理学につながることが多いです。 

 
 


2016-07-09

相談

子どもを想う気持ちはそれぞれの親が持っていて、今の時代は情報がいっぱいで、そして、「○歳までに!」「幼少期には○○の経験が必要!」など早期教育にも自然教育にも、分野を問わず、親を焦らせるフレーズがいっぱいです。

ようやく核となるものを見つけたけれど、それでも、こういうフレーズに出くわすと心がザワザワします。

それを専門に活躍されている方々にはそれなりの信念があって、だからこそ、強いメッセージをもったフレーズで言い切れるのだろうけれど、一般人の私にしてみれば、迷いのタネ。

習い事にしても一緒で、我が家の周りの環境では年中さんになると、「習い事」の話題が出ます。そんな周りの環境で、私も一時かなり気持ちがザワザワし、第1子の息子のときは、「あれはどうだろう?」「これはどうだろう?」「息子には何がいいだろう?」と色々迷いましたが、結局、息子から「やりたい!」という言葉が出なかったので、どれもスタートしませんでした。

小2になった今は、色々と話し合いをし、息子が「小2の5月末から始める」と言ったので水泳を習っています。

息子は習い事という枠で興味を持つものが今の時点では少ないけれど、娘は、そこそこあり、年中から体操を始め、頑張っています。


アドラーを学んで、色々なことを決めるにあたり、子どもたちと相談をすることにしています。
夏休み、仕事があって、どれもこれもに参加できるわけではないけれど、色々なイベントにしてもどれに参加したいか相談。

親の私は「こういうのどうだろう?」「これは子どもたち楽しみそう!」と色々とアンテナを張って、子どもたちに情報を提供をし、相談。
「行く!」と乗り気の返事もあれば、「行かない」と拒否されることもある。
もちろん、子どもたちからの「行きたい!」のリクエストにも、様々な事情でお応えできないこともあって、そういう風に相談しながら、夏休みの計画を立てています。

でもこれが基本の基本かなっと。習い事にしても、日々の生活にしても、相談。
迷う私を子どもたちが助けてくれていることも多々あります。子どもたちはそれぞれにはっきりとした答えをもっていることが多いのです。

これから先、進路という大きな決断においても、親には親の希望もあり、経験値から、色々とアドバイスできることもあるから、迷う子どもたちに親が助けることもできるはず。

その土壌として、日々、相談できる関係を築いておくことが大事かな~と思っています。


2016-06-22

娘からの教え

自分ひとりでは解決できそうになかった子どもたちの不適切な行動の一つ「ゴミはゴミ箱に捨てる」については光が見えてきました。

自助グループのみなさんに今の状況(エピソード)を分析してしていただき、私の導きだした答え(共同の課題にする)とは別の視点で具体的な代替案も学ばせていただき、私の子どもたちに学んでほしいことの目的も共同体感覚を育成するという視点からも明確になっていますので、そこに向かって進みます。


ゴミをゴミ箱に捨てるについては子どもたちと相談して、忘れるならば、見えるところに「ゴミは ゴミ箱に捨てましょう」と書いた紙を貼って、面倒ならば、比較的近くにゴミ箱をもう一つ用意しと、それなりに丁寧に進めてきました。それでも、やはり完璧にはほど遠い。
そのゴミを見る度に、「いいかげんにしなさい」の-5の陰性感情は持たなくなったものの、「どうしたら捨ててくれるのだろうか?」と-1、 -2の陰性感情を持ち続けております。

その陰性感情がなくなる工夫をしなければならないのですが、今までの学びの経験と、自助グループのみなさんからの学びとで、できるような気がしてはいたものの、「あああ、こういうことなんだ」と実感として教えてくれたのは娘でした。


今朝、私はパンを焼いたまま、本当にすっかり忘れていました。
パンを焼いてトースターに入れたまま1回、その後、思い出して、お皿に置いて、何らかの用事で席を立って1回、2回も続けて。

すっかり忘れている私に、娘は「お母さん、パンを食べるの忘れているよ」と別の用事をしていた私のところにパンの入ったお皿を届けてくれました。

娘の行動は忘れているから助けてあげようという想いからの行動でした。
陰性感情なんてどこにもなく、「あああ、こういうことなんだ」と実感したんです。

私には娘を困らせようという想いなどどこにもなく、本当にただただ忘れていただけ。
そんな私に「なんで忘れるんだろうね」「どうしたら忘れないようにできるかな?」と-5という陰性感情でなくとも陰性感情を持って娘が言い出したら、私は確実に勇気をくじかれる。でも、日頃の私はそういう風に子どもたちに接しているんだなと。


母「すっかり忘れてたわ、教えてくれてありがとうね」
娘「忘れているからどうしたらいいかなと思ったよ」
母「なんで忘れちゃったんだろうな」
娘「わすれん帽(妖怪ウォッチの妖怪)なんじゃない」
母「そっか、わすれん帽の仕業か」


ゴミをゴミ箱に捨てるについては、子どもたちはもう十分に学んでいるんですよ ね。
他のことに夢中になって忘れた、今は面倒だから、後でしよう、色々な理由はあるんだろうな。
今朝の私は何で忘れたかも分からないから、そういうこともあるのだろう。

娘は私を確実に勇気づけてくれました。娘に見習おう!

2016-06-20

本能との闘い!?ブレークスルー・クエスチョン

6月のある日、野田先生の公開カウンセリングに参加してきました。
公開カウンセリングそのものからも学ばせていただきましたが、野田先生の事前の講義にもたくさん学びがありました。

私が苦戦している「不適切な行動への注目しない」は本能との闘いみたいです。
「動物は生きていく中で具合の悪いことは本能的に気付くようにできている」とおっしゃっていました。本能だから仕方ない!では学びがない。そして、私はそのときに陰性感情を大きく作り出してしまうので、その陰性感情から抜け出す必要があります。その答えは、「不適切な行動の中にある適切な面を探す」です。感情は変えられないから、感情を生み出す思考を変える、そのようなことをおっしゃっていました。そして、やはり答えはパセージにありました。

アドラー心理学に基づく考え方は日々の実践で身につくものなので、これをすればあなたもアドレリアン!というものはありませんね。だからこそ実践するのみで、歩みのゆっくりな私も少しずつですが陰性感情がトーンダウンしてきています。


・子どもたちがゴミをゴミ箱に捨てない

「いいかげんにしなさい、何度言ったら分かるの」の-5の陰性感情を持つことはほとんどなくなりました。そうはいっても-1~-2の感情がニョキニョキと出てきますが、そのときは極力、自分でゴミを片付けるようにしています。やさしくきっぱりと冷静に言えるときだけ、「ゴミが落ちています」と事実を伝えたり、「片づけて下さい」ときっぱりと言ったり、そんな状態です。もう少しで共同の課題にするために子どもたちと相談できるかなと自分に期待しています。


 ・息子の食事マナー(手を使う、クチャクチャと食べる)
生理的に受け付けないところもあるため、とにかく何も言わないというスタンス=共同の課題に進むための前段階です。まだ、一度、不適切な行動に注目すると、ダダダダダーと流れそうなのです。やさしくきっぱりと「口を閉じて食べて下さい」と声掛けできたとしても、その数分後には再びクチャクチャと食べてそうなのでね。もっと適切な面に注目できるようになった後、食事をしているときでないときに、ちゃんと相談することから始められるといいかなと思っています。



少し前から自助グループでも、そして、野田先生の公開カウンセリングでも学んだブレークスルークエスチョンという方法が、停滞していた私を少し前に進めてくれました。

ブレークスルー・クエスチョンは野田先生が補正項にも書いておられました。

1)不適切な行動をする子どもの適切な側面を考え、2)その子に学んでほしいことを考え、3)『パセージ』のどの部分を使ってそれを学んでもらうかを少なくとも2つ考える、という方法

パセージプラスを学びエピソード分析の方法も何度か自助グループのみなさんとしましたが、一人で向き合うにはまだまだ力不足で、分析してはみるものの、「どうしたらいいのかな、私?」と学びが疑問で終わってしまうこともありますが、ブレークスルー・クエスチョンだと一人でも代替え案にたどりつけそうなんです。

学んでほしいことという視点で考えてこなかったことを反省して、学んでほしいその目的をしっかりと持って育児をしていこうと新たに思った公開カウンセリング。参加してよかったです。




2016-06-11

「不適切な行動に注目しない」苦戦中

食事のマナーとお菓子のゴミに関しての「不適切な行動に注目しない」の実践は苦戦しております。

幾度となく、注目しないを試みては、どうしても陰性感情を捨てきれなかった不適切な行動ですから、時間はかかるだろうと思ってはいますが、長年蓄積したものがあり、言わずにはいられない、自動的に注目して、口から言葉が出てきます(苦笑い)

不適切な行動をする子どもの適切な側面を考えたいんだけれど、悪しき習慣(考え方の癖)がかなり根付いているので、そこまで辿りつきません。

また、食事については、適切な側面(元気にごはんを食べている、おいしいと食べている、残さず食べたetc)を考えつきやすいのだけれど、お菓子のゴミ問題についてはなかなか適切な側面を見つけにくい・・・

これは私一人では難しいかもな。
自助グループのみなさんに助けてもらおうかな。



2016-06-08

兄妹喧嘩

2歳差の兄妹、喧嘩するする。言いつけに来る来る。
明らかな兄妹喧嘩には介入しないようにしていますが、ほぼほぼ毎日、兄は妹に戦いごっこを仕掛けます。百裂肉球 by 妖怪ウォッチやらポケモンのわざやらを仕掛けます。そして妹は泣く、そして私は陰性感情。これは喧嘩なのか?「イヤ」と言っているのに止めないのはイジメじゃない?と思うわけです。

そういうモヤモヤした気持ちを持ちながら、介入したりしなかったりの日々を送っていたのですが、

息子がいつもと同じように戦いごっこを仕掛けようとしていたのですが、私がそこにいたからかもしれませんが、実際には叩く真似。

でも私はいつものことかと思い(マイナス1くらいの陰性感情)ながらも、冷静に「戦いごっこしたいときは、娘にしてもいいか確かめてからしてね」と言ったら、予想外に娘から「戦いの真似だよ」と返事が返ってきました。

そのときに「あ、娘は「いや~」と泣いてはいるものの、戦いごっこの遊びを楽しんでいるのか?」と感じたのです。

これはいいチャンスだと思ったので、
母「いつも、戦いごっこで娘ちゃんが「いや~」て泣いているからさ、お母さん、戦いごっこは嫌なのかなと思ってたよ。これからいやなら自分で止めてってお兄ちゃんに言ってね。」
娘「うん」

娘の気持ちも確かめられたので、戦いごっこは陰性感情なく見守れそうです。
それでも、時々、力の加減が分かっていないようなときがあるようにも思えるので、ケガはしないように、見守っていきたいと思っています。


2016-06-04

不適切な行動に注目しない

先の記事に書いたように、私が今、抱えている陰性感情、子どもたちの不適切な行動と感じているものは

・子どもたちがゴミをゴミ箱に捨てない
・息子の食事マナー(手を使う、クチャクチャと食べる)

この二つです。

この二つはパセージの「子どもには結末がかえってこない場合」なのだと思います。

ゴミをゴミ箱に捨てずに、床に落ちていてもほとんど気にならないうちの子二人。
うちは和室がリビングなので、床に座るのですが、座って、本を読みながら、お菓子を食べると、本を読むことに集中するからか、そのお菓子の包み紙は床に置かれたままになります。私はそのような状態に私的感覚が反応しますが、子どもたちは気にならず、部屋が散らかっているという状態は子どもには結末がかえってこないのです。

息子の食事マナーについてもですが、将来、手を使って食べたり、クチャクチャと食べたりすることで結末がかえってくることは必ずあると思いますが、今の息子に結末がかえってこない。



私なりに陰性感情に向き合ってみて、不適切な行動に注目せずにおこう!と思っても、その意識が反対に動き気づく。
じゃあ、適切な行動に注目しようと思うと、なかなかその時が訪れないようにみえて、反対に不適切な行動に気づく。

そんな風に気づいて、気づいて、そして陰性感情。
毎日のことなので、優しくきっぱりと伝えることあれば、口を出さないようにすることもあれば、いやーどうしても言わずにはいられない!とマイナス感情丸出しで勇気をくじく時もあるというのが、今の私。表面的に優しく振舞ったり、口を出さずに陰性感情を沈めても、そこには陰性感情があって、私のもっと根本を変えて、心から陰性感情を持たないようにならないと、繰り返すだけだと思っています。

とにもかくにも不適切な行動に注目しない。
今の私は子どもたちがゴミをゴミ箱に捨てていたり、食事マナーが守って、適切な行動をしているときに注目するのも、一旦、中止。
この2つのことに関して、負の注意も正の注目もしないことから始めます。

陰性感情を持ったときに、その陰性感情に向き合って、「よかった」と思うことを見つけてみます。

この2つは根っこが一緒の陰性感情だと何となく思っていて、だから、どちらかの陰性感情から抜け出せれば、同時に抜け出せられると思っています。

ま、とにかく実践あるのみ!

2016-06-03

言葉ではっきり頼まれたので

娘は幼稚園の延長で体操教室に通っています。
体操教室の道具を用意して持っていくのは娘の課題。そうはいっても、まだ曜日感覚がしっかりと身についていないところもあるので、時々、声掛けをしてお手伝いをしています。

私も娘もすっかり体操教室のことを忘れて、登園してはじめて思い出した母娘。

母「あ、今日、体操教室だった。すっかり忘れてたね」
娘「あ」
母「どうしようか?」
娘「持ってきて」
母「今日は体操服だし、このまま体操教室でできるよ。お母さん、このあと用事があるから持ってくるのは難しいわ」
娘「分かった」

という会話をして、幼稚園をあとにしたのです。

課題の分離で、この通りでも問題ないと思うのです。
娘も忘れたことから学んでくれると思うのだけれど、今回は言葉ではっきり頼まれたな~と思い直して、用事といっても再び幼稚園に忘れ物を届ける時間を作ることは可能だったので、届けることにしました。「お母さん時間ができたから届けにきたよ」という言葉を添えて渡しました。


娘は体操教室の道具をたまたま忘れたので、そのことに陰性感情を持つこともなく、娘の「分かった」にも娘の力を感じて、

ここに私の陰性感情はゼロだったからこそ、普段は仕事で届けるのは無理だけど、今日は届けられるなら、届けてあげようという気持ちになったのです。

野田先生が「陰性感情から抜け出せばさまざまのことができる」ということを補正項に書いておられたが、こういうことなのかな~と思いました。


以前の私は課題の分離が苦行でした。課題の分離、課題の分離と言い聞かせてようやくできたり、結局、課題の分離の重圧(?!)に耐えられずに口出ししたりしていたのですが、少しステップアップしたかなと思っています。

課題の分離ができているので、声掛けをすることはあるけれど、その声掛けに相手がどういう風に対応するかに感情があまり反応しないようになりました。

私の声掛け(アドバイス)を子どもが受け入れようか受け入れまいかにどちらでもいいという感じですかね?アドバイスを受け入れても学んでくれるだろうし、アドバイスを受け入れてくれなくても、結末を経験することで学んでくれるだろう、だからどちらでも親はお手伝いできているかな?と思えるようになったということです。

例えば、この娘とのこのエピソードの後、私が娘に「忘れないように前の日に準備しようか」というアドバイスをしたとして、それを娘が受け入れてくれなくても、受け入れてくれなくてもどちらでもいいということです。
   
  実際はこういうアドバイスをしたわけではなく、
  このエピソードのアフターは
     
     母「今日、忘れてしまったね」    
     娘「そうだね」    
     母「どうしたら覚えていられるかな?」    
     娘「カレンダーに印をつける」    
    
    という話し合いをして、    
    我が家の予定を書き込むカレンダーに   
    体操教室のある日を蛍光ペンで塗りました。



今回の課題の分離は大きな進歩で、色々と波及して違う課題も分離ができるようになって、陰性感情が抜け出せたところもあるけれど、それでも、まだ抜け出せない私がどうしても不適切だと感じて、陰性感情を持つものがあります。

自分の陰性感情に丁寧に向き合ってみた結果、私はどうも子どもには結末がかえってこない場合の自然の結末にまかせることができない課題には陰性感情で持って相手を動かしてしまっています。パセージには子どもと共同の課題を作った方がいいでしょうとありますので、このことについて、また一つ一つステップを踏んでいきたいと思っています。




2016-05-28

子どもの話を聴こう。適切な行動に注目しよう。

エピソード分析をして、学びはありましたが、それでも上手くいかないときはあります。
私の私的感覚は変わらないけれど、娘は成長し、また違う考えを持ち始め、今までの対応では上手くいかない、そして私はそのときの不適切は行動に注目して、陰性感情を持つということがあります。

以前の「朝ごはん」のエピソードもいろいろと形を変えて、私の私的感覚を刺激し、私は陰性感情を持つことがあります。

私の私的感覚、ごはんは残さずに食べてほしい=食べ物を大事にするはあまりにも抽象的で子どもたちに上手く伝わっていないのでしょうか?

ごはんを食べるという日常の中で、私は娘と「食べ物を大事にする」ということについて

食べられそうな分を子どもに予め確認したり、
キライなものはほんの少しだけ頑張ってみたり、
と相談しながら学んでほしいと願っていて、そのように行動にもうつしているのだけれど、なかなかうまくいかない。

例えば、ビュッフェで食べられると思ってお皿にいっぱい盛ったけれど、食べられなくて残してしまったというようなことです。「食べられる分だけね、あとからおかわりしたらいいよ」と声掛けしても、「食べられる!」と言う、そして、言葉を信じて、娘の言う通りの分量を取り分けたのにも関わらず、やっぱり残すということが繰り返されています。私の私的感覚はこの行動が何度も繰り返されると、どうしても容認できなくて、ドッカーン(怒り-5)となるわけです。

娘も私が怒ることを学んでいて、私が怒らないように、食べられないものを隠したり、兄のせいにしてみたり、娘も娘で対処行動を色々と考えて行動を起こします。またそれに対して、私が陰性感情。これこそ、ピンポンゲーム!?

基本に戻ろう、子どもの話を聴こう。適切な行動に注目しよう。
私は相談しながら学んでほしいと願っているのだから、私の怒りはその学びにはほど遠いこともよくよく分かりました。ドッカーンと怒る私に相談できるわけないものね。


*****

そして、食べられないものを隠した日(朝の出来事)に関して、冷静になった帰宅後、娘と話しをしました。

すると、「朝の出発の時間が近付いているけれど、どうしても食べられなくて隠した」ということでした。このエピソードを自助グループで話したら、娘なりに色々と考えて、朝の出発時刻も考えて、私を怒らせないように協力してくれているということに気が付かせていただきました。

そうやっぱり娘は常に私に協力的なんですね。陰性感情を持ったら、まずは「協力的」な部分を探そう。そこに気が付けば、陰性感情からも容易に抜け出せるかなー。実行あるのみ!



2016-05-26

ダンナとの関係

息子との「課題の分離」の余波はダンナとの関係にも影響を与えています。

私が一人で忙しく子どもたちの相手をしている横でダンナが寝ていたりすると、「何で私ばっかり」とずっとずっと陰性感情を持って暮らしておりました。

昨年はダンナの仕事が忙しく、定時に帰れることなどほとんどなく、「亭主元気で留守がいい」とはよく言ったものだわ、いない方が陰性感情が沸かないわ~と思って過ごしていたのですが、一方で「これでは夫婦としてどうなのよ?」という気持ちもあり、この陰性感情にちゃんと向き合うことにしたのです。

まずは「私ばっかり」の気持ちに向き合うために課題の分離をしました。

時間の過ごし方はそれぞれの課題。家族みんなの時間もあれば、それぞれの時間の過ごし方もある。子どもとの向き合い方もダンナと私は違う。私がどのように向き合おうが、ダンナがどのように向き合おうがそれぞれでどちらが正しいか正しくないか裁く必要もないと決め、

ダンナが定時に帰って来る来ないに関わらず、私は私で、子どもとの時間を過ごすことにしたのです。

過去の経験から、こういうときの私はルーティン化した方が落ち着くので、

19時までに夜ごはんを食べ終える→お風呂に入る→夕飯の洗い物をする→子どもと遊ぶ→21時に寝るのを見届けながら、洗濯物を畳む→洗濯ものを干す

という毎日を送ることを決めました。
もちろん、子どもたちも子どもたちの時間がありますので、臨機応変に対応しながら、基本ルーティンをこれと決めて日々送っています。

こんな風に決めると、私は私ですべきことをするだけ、ダンナが仕事で疲れて帰ってきてゴロゴロしてようが、気にならなくなりつつあります。
以前は「私が忙しく家事をしているんだから、あなたが子どもの相手をしなさいよ!」と思っていたんですけどね。不思議なものです。

*****

16時までパートの仕事をしていますので、平日、子どもとの時間は16時半~21時の4時間半。子どもも子ども自身の時間を持つようになり、ガッツリ遊ぶのも週に2、3回あるかないかくらいになりました。まだ「お母さん遊ぼう」と言ってくれるので、それにはできる限り応えようと思っています。

あっという間になくなりそうな未来が見えてきてようやくこの時間を大事にしたい気持ちが芽生えてきました。先輩ママさんから「あっという間だよ」と言われ続けてきましたが、ようやく納得。
昔、自分の時間がほしいと思いイライラした自分があってこその今の私なんでね、後悔しているわけではないのだけれど、今、子どもからの「遊ぼう」にちゃんと応えようという気持ちになれてよかったなとも思っています。

2016-05-24

優しくきっぱりと

「課題の分離」をして数週間が経ちました。

息子の学校では、子どもが宿題をする→親が答え合わせ(確認)をする→子どもが正しく直して提出することになっています。

私にも私なりの時間が必要ですから、「答え合わせ(確認)が必要ならば、夕食時までにできた宿題を見せて下さいね。」とお願いし、息子はそれに協力をしてくれています、平日は。

宿題以外にも家庭学習として別の教材があり、これは息子と相談して、日曜日の夕食までに1週間分、見せてくれることになっています。


週の真ん中(水曜日、木曜日あたり)に「家の勉強(家庭学習)はどうするの?」と尋ねることはあるけれど、これについても以前なら「やりなさい」の気持ちが含まれていたけれど、ただの確認。
そして必ず「また今度」という返事が返ってきます。

今の息子は、日曜日の夕方から週末の宿題と1週間分の家庭学習をすることにしているようです。彼が決めた勉強ペースですから、それを尊重しています。


そういうことで日曜日の夕方は忙しい息子。
気分よくスタートしても、想像以上に時間がかかったりすると息子がイライラしてきます。答え合わせをした結果、間違いがあってやり直しが多くて、泣き出すこともあります。今のところ、2回はエンエンと泣きながら、2回は僕やり切った!という結末。

さて、私は、エンエンと泣かれると、イライラしてきます。
ここに至るまでの過程では課題の分離ができてきたけれど、その結果を息子が素直に受け入れないと、「自分で選んだ結果でしょ!なら泣かずにやりなさい!」と陰性感情も持ってしまいます。


泣いて勉強するにしても、泣かずに勉強するにしても、これは今の息子にとって「やるべきこと」で息子の課題。

でも、私は息子に泣かずにやってほしいと思っていて、それは私の課題。

息子にはやろうという気持ちがある、その適切な行動に注目しよう。
ここで優しくきっぱりと勇気づけられるといいのにな。
そのための第一歩の課題の分離。たとえ泣いていようとも、冷静でいられる私になりたい。

2016-05-18

構えをかえる

子どもの不適切な行動だと、陰性感情を持つ多くのことは失敗だったりします。
面倒くさがりの私はその失敗の後にふりかかることにばかり注目してしまって、ドーンと陰性感情を爆発させてしまうようです。

以前(こちらの記事)では陰性感情を持たないようにと私のために行動していました。この時の私は私のために、子どもたちに自立すること(失敗の後始末)をさせていました。

まだまだ成長の途中の子どもたち、失敗はいっぱいあるけれど、それを見守る私の構えは少しずつですが、変わった気がします。

失敗だけでなく、私が不適切だと思う行動でも、冷静に子どもの話しを聞くと、そこに「親を困らせてやろう」という意図はありません。どこにもどこにもない。
私の陰性感情を振り返ったり、エピソードを分析したり、それでも気が付けないときは子どもに話しを聴いてみたり、自助グループでリーダーさんや先輩アドレリアンさんに話を聞いてもあったり、特殊講義に参加したり、色々と自分の陰性感情に丁寧に向き合って、ようやく気が付けました。

以前の私は
牛乳がこぼれる→掃除をしなければならない→私の手間が増える→いらないことをしないで!私に迷惑をかけないで!となっていたけれど、

牛乳がこぼれる→掃除をしなければならない→私の手間が増える→面倒だなー に変わったかな。

面倒だと思うことが陰性感情なら、陰性感情から抜け出せてないけれど、少なくとも、「私に迷惑をかけないで!」という気持ちからは抜け出せたような気がします。色々な場面で子どもの話を聴けば、「お母さんに迷惑を掛けてやれ!」という気持ちはこれっぽちもないんですよ。ないのに、勝手にそう思っていたわけなんです。


母「牛乳を自分で入れようと頑張ったんだね」
子「うん」
母「頑張ったけど、こぼれっちゃったんだね」
子「うん」
母「こぼれた牛乳はどうしようか?」
子「キレイにする」
母「じゃあ、お願いね」


文章にすると同じなんだけど、以前の私は何とか陰性感情を押し込んで冷静に冷静にと取り繕っていたけれど、今は少し違います。言葉にする文才がないのが残念だけれど、手伝ってあげたいという気持ちが言葉を言う私にはあります。それはキレイにするお手伝いではなく、子どもたちが自立するためのお手伝い。

そして、以前での気持ちでこの言葉掛けをしていても、罰になっている可能性が高く、子育ての心理面の目標である、人々は仲間であるとは感じてくれてなかったと思います。


アドラー心理学的な「構え」を身に付けるという意味をようやく理解できた気がします。この「構え」に気が付いて、ようやくアドラー心理学の第一歩。




2016-05-16

給食エプロン-最終章?!

給食係は3週間に1度の割合で回ってくるらしく、その週末は給食エプロンを持ち帰ります。
課題の分離をしてはじめての給食エプロンがやってきました。

以前は、
課題の分離ができなくて、勝手に手助けしたり、
何度も繰り返すものだから、「いいかげんにしなさい」と感情的になったりしていました。


今回の私は、「おそらく持って帰ってきているであろう」とは思ってはいましたが、
課題の分離をしても、まだブレブレなところがあるので、見ない方が賢明と、ランドセルに近付かず週末を過ごし、

息子が「給食のエプロン忘れてた」と伝えてきたのは日曜日の17時ごろでした。


母 「忘れてたね、どうしようか?」
子 「このままアイロンを掛けて持って行くとか・・・」
母 「洗ってアイロンを掛けて持ってきて下さいとお願いされているんだよね?」
子 「うん」
母 「洗わずに持って行っちゃったら、次の当番の人は汚れたままのを使うことになるよ」
子 「洗う」
母 「じゃあ、洗おう」
子 「はい」とエプロンを渡そうとするので、
母 「自分で洗ってね、洗濯機の使い方は教えてあげるから」

そして、自分で洗濯機をスタートさせ、洗濯が終わったら、自分で干しました。
縦型洗濯機からエプロンが取れないというので、そこはお手伝いをし、物干し竿にも自分なりに工夫したけれど、やはり届かないので、そこはお手伝いをし、そうして、息子は、「洗濯」ということを身に付ける機会を得ることができました。

そして、息子も洗濯できたことに誇らし気でした。

息子の意見「このままアイロンを掛けて持って行くとか・・・」を尊重して、洗わずにアイロンを掛けて持って行き、その体験から学ぶという方法があったのかもしれないけれど、

子どもの行為の結末が子ども自身にだけふりかかるわけではなく、クラス(次の当番さん)に結末がふりかかるこのような場合は、自然の結末ではなく、こうして共同の課題にしていいと判断しました。その判断がアドラーなのか、非アドラーなのか、自信はないけれど、息子が誇らし気であったのは確かで、勇気づけはできたかなっと思います。



2016-05-15

気持ちを察する

「相手がどう思うか考える」ことはとても大事なことだと思うんだけど、時には「相手がどう考えるか」に縛られて、そのことが色々な陰性感情を起こす時があるように思います。

あ、うんの呼吸で気持ちが通い合う関係には憧れはあるけれど、少なくとも、子どもたちともダンナともその関係はムリっぽい。「察してチャン」という言葉があるように、察することを要求されて、相手が思う通りに察することができなくて、心の行き違いがあるなら、はっきりと言葉で表せる関係である方がいい気がします。

特に私は「察する」ことに重きを置き過ぎるところがあるようで、勝手に察して、時にはその察した内容が違って、陰性感情を持って、という悪循環になっていることが多いなーということに気が付きました。

それを断ち切るためには、私が察することをやめることから始めました。
家族とは、お互い察しなければならない関係ではなく、言い換えれば、その立場を要求されてないのに、勝手にそういう風にしていただけだったみたい(苦笑)。


夫 「新聞、どこにあるか知らない?」
私 「テレビのとこにないかな」
夫 「ないよ」
私 「片付けたかも、ごめん、覚えてない」
夫、新聞置き場を探す
夫 「見つからないよ」
私 「ごめん、どこか覚えてないわ、朝も読んでたけど絶対いるの?」
しばらくして
夫 「新聞どこか思い出せへん?」
私 「どこにいったかなー、私、探した方がいい?」
夫 「できたら探してくれる?」
という会話をしながら、ムリのない範囲で探していたら、見つかりました。

以前なら「新聞、どこにあるか知らない?」は「新聞探して」と察していて、「なんで私が探さないといけないの」と陰性感情を持っていました。恐らく、この察したことは間違ってはいないのだけれど、これを繰り返して、陰性感情を持ち続け、関係を悪化させるより、確認していくことの方がいい関係が築けるかな。


「夫が探す新聞を私が探して見つけた」
この行動は以前と変わらないけれど、その間の会話があるとないとでは全く違うのです。「なんで私が探さないといけないの」と陰性感情を持って動いていたのが、「そんなに読みたいなら探してあげよう」に変わるのです。


今の私は言葉通りに受け止めるを練習中。これはパセージの「言葉ではっきりと頼まれてから手伝う」にもつながります。夫との関係においても実践できそうです。


2016-05-11

リーダー娘

娘の幼稚園での年長がスタートして1ヶ月。
グループが決まりました。メンバーは先生が決めますが、リーダーは子どもたちが決めました。6名のうち、男の子と娘の2名がリーダーに立候補して、じゃんけんをした結果、娘がリーダーになりました。

娘はチャキチャキしているものの、人の前に立つようなリーダーについては敬遠するタイプなのだと思っていたので、6名というグループとはいえ、「リーダーをやりたい」という意志があることに驚きました。

そうか、娘もグループではリーダーがしたいんだな。
私もクラスの学級委員長とかには決して選ばれないけれど、班長はよくしていたなっと。立候補であったかどうかは記憶が定かではないけれど、イヤな思い出があるわけではないので、性に合っていたんだと思います。今でも仲間内では幹事役になることが多いしね。

似た者同志、家族4名の中でお互いにリーダー役をしたいんだから、そりゃあ、ぶつかることも多いんだわね。今までの色々なバトルを思い返してみて苦笑いです。

「娘がリーダーをしたいという気持ちがあるならば、そう、お任せすればいいんだわ!」とアドレリアンさんのブログを拝見して学ばせてもらいましたので、早速、実践しました。 (いー=娘)

母 「今からみんなの部屋(リビング)を掃除します」
娘 「はーい」
母 「お手伝いお願いできますか?」
娘 「・・・」
母 「いーちゃんにお任せしたいところがあるのですがいいですか?」
娘 「なに?」 
母 「本棚に全部の本を戻していただけますか?この本棚を片付ける係をお願いしたいのですが、いいですか?」
娘 「いいよ!」


係の役が大好きな娘は「係」という言葉にやる気を起こしたようで、いつもと全く違って喜んで片付けてくれました。色々と娘なりに、本の分類まで考えての片付けを終えてくれました。

「片付けて~」
「片付けなさい!」
「片付けないなら捨てるよ」と陰性感情を持って動かしても、結果はイヤイヤながら片付けをした感いっぱいの出来具合だったのにね。

私も陰性感情を持たず、娘もみんなの部屋(リビング)をきれいにすることに協力をすることに喜びを感じてくれまして、家族という共同体への貢献を学んでくれました。こういうことが共同体感覚につながるんでいくような気がします。

共同体感覚を育むための言葉掛け(勇気づけ)については色々と考えていて、これ!という答えはまだ辿りついていないけれど、育てたい気持ちははっきりと分かりました。


2016-05-06

探しもの

子どもたちはいつも何かを探しています。

「お母さん、消しゴムは?」
「お母さん、はさみどこ~?」
「お母さん、パジャマないよ~」

これ一つ一つに陰性感情を持っておりました。
この「ものを探す」子どもからの言葉が「お母さん、探して!」に聞こえていたんです。

だから、形式的に「自分で探してね」と課題の分離をしていても陰性感情が消えなかったり、「もう」と陰性感情を持ちながら、勝手に探すのを手伝ったり、「片付けないのが悪いんでしょ」と勇気くじきをしてみたりの日々を過ごしておりました。

どこにも「探して」と頼まれていないのに、勝手に私がそのように解釈をして、そして陰性感情を持って動いていました、今までは。

大きな陰性感情をもって爆発して、「自分のものは自分で片付ける」ことを伝えたとしても、今までの対応では、子どもたちが学んだことは、お母さんが最後は探してくれるだとか、泣きつけばお母さんが探してくれるだとか、自立とは逆方向に向かっているだけ。


講義や自助グループの先輩アドレリアンさんから色々と学ばせてもらったのと、
課題の分離をすることを息子と一緒に決めたときの息子の「できる」の言葉とで、

本当に自立するために必要な手助けは、今、この探し物を見つけるお手伝いではなく、「課題の分離」が必要なことに、ようやくようやく心から思えるようになりました。
そう、子どもは「自分の問題を自分で解決できる能力がある」のです。親はそのお手伝いをするのです。2歳差の我が家、息子ができるなら、娘(年長)もできるはず。二人まとめての課題の分離です。

休み中も、いつも何かを探していましたが、

「どこだろうね~」「知らないよ」と受け流せるようになりました。

それと、探しているものをたまたま私が見つけたときも、以前なら「ここにあるじゃないの!」と陰性感情を持って伝えていたのですが、陰性感情を持たずに「ここにあるよ」とお伝えできるようにもなりました。

ま、たまに陰性感情がひょっこりと表れてきますが、それでも、ずいぶんと減りました。この探しものに陰性感情をもたないと、何だか日々の陰性感情もずいぶんと減った感じで、私自身も大きな解放感を持つことができています。

2016-05-05

「課題の分離」その後

さて、「課題の分離」のその後ですが、声掛けゼロはなかなか難しいですが、私の声掛けについては確実に感情が違うものとなりました。

連休期間中も前半は体調を崩してダウン、後半は後半で遊びに出掛けており、息子の頭から宿題のことなどすっかり忘れている様子。いつもより量が多い宿題が出されており、「大丈夫かな~」という気持ちはありましたが、お口はチャック。それも言いたい気持ちを抑えてという感じではなく、自然に口出しせずにおれました。


連休最終日の5日のお昼を外で済ませて帰宅したとき(1時過ぎ)に、

母「宿題の予定だけ教えてくれる?」
子「3時からするからお母さんその後、チェックして」 
息子が通う学校の宿題、ドリルなら親が○付け、日記なら親が読みましたの印が必要です)
母「分かった」

宿題についてはこの会話だけをしました。

今までは私の不安を解消するために息子に宿題の予定を確認していたのですが、厳密にいえばその気持ちも完全に消えたわけではないけれど、純粋に予定を知りたかっただけの方が大きくなりました。
「今からするわ」という返事があればキラキラと陽性感情に傾いたのかもしれませんが、「3時にする」と言う返事に特段、感情を動かすことなく、フラットな気持ちでいられました。

その後は、私も別の用事で宿題のことはすっかり忘れていて、5時頃に「お母さん、見といてね~」と声を掛けられて、いつの間にやらちゃんと済ませておりました。


我が家はお父さん(ダンナ)が結構、「宿題は?」「宿題を済ませたらテレビを見てもいいよ」etcの声掛けをするので、我が家全体で見ると宿題においては完全な「課題の分離」は難しいのですが、息子と私の中では「課題の分離」は9割できているかな~と思っています。


休み明けは荷物がいつもより多いことも分かっていて、
「色々と思い出していたんだけどさ、特別なものは持って帰ってきてないことにようやく気が付いたわ」と報告してくれました。

このことについては何も声掛けをしなかったけれど、「そっかそっかすっかり忘れていたけれど、自分で一所懸命考えていたんだね~」と苦笑いしながらも微笑ましい気分にさせてもらいました。


結局、忘れがちな音読は忘れておりますが、その忘れていることに私も今、気が付きました。
大きく×とカードに書かれるかもしれませんが、そこから何かを学んでくれるでしょう。


2016-04-29

相乗効果

「課題の分離」3日目、息子は熱を出して学校を休みました。
黄砂と花粉症で鼻づまり、くしゃみ、咳だと思っておりましたが、風邪の症状も出始めていたんですね。吐き気もあって、診断は胃腸風邪でした。

そういうことで、その日、私は仕事を休みました。

仕事が休みになったので、普段は送っていくところを娘はバス通園となりました。

その日は雨。雨だけれど、決して長靴を履かない娘は、いつもの靴。
それもメッシュですぐに濡れるのに、水たまりに足を入れ始めました。

雨の日に長靴を履く、履かないについては課題の分離で、陰性感情からサヨナラできていますが、メッシュのスニーカーで水たまりに足を入れるのを見ると陰性感情を持ちました。

今までなら
「濡れるよ~」
「やめようよ」
「やめなさい」の3段階で、最後は怒りの感情を持って、娘のその行動を止めさせていましたが、静かに見守ることができました。

何度か経験済の娘は濡れることを知っていても、水たまりで遊ぶことの楽しさを選んでいるのかもしれませんね。ま、聞いてみないから彼女の想いは私の想像なんだけど。

雨で靴下が濡れるのは親の私からしてみれば不適切な行動なんだけれど、娘にしてみれば、水たまりでバチャバチャできる最高の遊びなのかもしれません。

ならば濡れないように長靴を履けばいいのにと私は思うけれど、娘には娘なりに考えがあって、いつもの靴で水たまりに入ることを選んでいるのだろうね。次の機会に聞いてみよう。

そう思うと、今日は陰性感情を持ったけれど、次の雨の日が楽しみになってきました。娘の目的を聞けば陰性感情から抜け出せるような気がしてきました。

相乗効果で、娘の行動への陰性感情の付き合い方も少しは上手くなったかな?と思っています。
それでも他にまだまだ色々とありますが、それも一つ一つ丁寧に向き合えば、一つ一つずつ陰性感情から抜け出せるのかもしれません。

2016-04-27

「課題の分離」2日目

「課題の分離」2日目の朝、息子はちゃんとお箸を洗って、給食袋の準備を済ませておりました。
洗わずに、「洗った」と言うかもな~とも想定していました(どれだけ、私は息子のことを信じていないのでしょうか・・・書きながら反省です)ので、

そのことに気付いたときに「お箸、洗って準備したんだね」と適切な面に声を掛けることができました。そのときの息子はパッと華やいだ顔にしましたよ。
こういうことを繰り返して行けるといいですね、私も息子を勇気づけられた!と実感できたように思います。

音読は結局せずにそのまま登校しました。

体育のある日で、体操服を着るのを忘れているようでしたが、最後の最後に思い出して慌てて着替えておりました。

私はハラハラしながらも、どうするかな~?と思いながらの見守りになりました。
このハラハラを向き合うのは私の課題ですから、何とか頑張ります。

そして、昨日の出来事があって、息子も何かを学んでくれたのでしょう。
今日の息子は給食袋を夜ごはん終了時には出しており、寝る前までに音読も済ませました。
音読を済ませた国語の教科書は机に置いたままですが、「入れるの忘れてた」と言っておりましたので、明日の朝、入れてくれると信じましょう。


今回の課題の分離は私なりに丁寧にステップを踏んでいます。
実は何度か課題の分離をしようと試みたことがあります。今までは、息子と話し合いをせずに勝手に私が決めて始めたので、上手く課題の分離をできずに終わっておりました。
今回は息子からの「できる!」の声があり、それが私の心からの課題の分離を進めてくれたように思います。



2016-04-26

「課題の分離」宣言!

月曜日、課題の分離を息子に宣言をしました。

パセージをもう一度見直して、色々とシミレーションして、どういう言葉が息子を勇気づけできるのかを自分なりに考えて、

「宿題は?明日の準備は?の声掛けをこれからは止めることにした」こと
「あなたはできると信じている」ことを私なりの言葉にして、課題の分離を宣言しました。

息子からの返事は「できる!」と心強い返事でした。

息子の「できる!」を信じよう。
見守るのが苦手だけれど、覚悟は決めました。

「8時までには宿題を済ませるわ~」と自ら宣言しておりましたが、今は7時30分過ぎで、まだ遊びの真っ最中です。今までなら「もうすぐ8時だよ~」と声を掛けていましたが、見守ります。覚悟を決めたので、いつもより気が楽です。

「どうするんだろうな~?」という気持ちはぬぐいきれませんが、それは不安という陰性感情もありますが、何を子どもは学ぶだろうか~という期待という陽性感情のような、複雑な気持ちです。


*******

さて、この日の結末は
帰宅したお父さんから「宿題は済ませたの?」の声掛けがあり、息子は「あ、忘れてた」と、ドリルを済ませました。ドリルは済ませましたが、もう一つの宿題である音読は忘れたままです。(お父さんからの息子への声掛けにホッとしたのが正直なところです)

どうするんでしょうね?朝に思い出してするのでしょうか?

そのときに私が陰性感情を持たずに勇気づけできるように、色々なパターンをシミレーションしておきます。


洗うべき給食袋(コップ、お箸)については、夜の洗い物が終わった後に出してきました。(夜の洗い物の前までに出してほしいことは以前から伝えてあります)


子「もう洗い終わっちゃった?」
母「うん、洗い終わっちゃった」と陰性感情を持たずに返事ができました。

そして、その洗うべきコップ、お箸は給食袋に入ったまま、食卓に置いてあります。

寝る前に
母「どうする予定?」
子「明日の朝、洗うわ」
母「洗わなきゃと思っているんだね、お願いします」 

「洗わずそのまま持って行くわ」ということも想定していたので、洗わなければならないことが分かっているんだと適切な面に気が付きましたので、こちらも陰性感情を持たずに「お願いします」と言えました。

こうしてシミュレーションをしておくことは、陰性感情から抜け出す、私の一つの方法のようです。

今日はこうして冷静に対応できましたが、何日も繰り返されたときに「いいかげんにしなさい」と爆発するのではないかということを私自身の課題として心配しています。私の学びに時間がかかるのと同じように子どもの学びにも時間がかかるということを軸にしておきたいと思っています。





2016-04-22

「すっかり忘れています」からステップアップ

再び週末です。

今週は当番ではないので給食エプロンは持ち帰ってきませんでしたが、金曜日は上靴と体育用の帽子を持ち帰って来ました。

で、やっぱりすっかり忘れています。

そこにどうしても陰性感情を持ってしまう私。
その気持ちのまま「共同の課題」にしたところで根本的な解決にはならないのだと分かっているけれど、「でもでも」と自分自身に言い訳をして、息子に声掛けをしてしまう。

「意識的下手」から「意識的上手」へステップアップするためには、覚悟を決めよう。

私は「課題の分離をする」と決めます。

これは「子どもの課題」
結末をしっかり体験してもらおう。

息子の行動にどう私は勇気づけられるかをシミレーションしておこうと思います。
咄嗟に「勇気づけ」ができる「無意識的上手」に一気には成長できないんでね。





2016-04-20

エピソード分析

エピソード分析の方法を学んで間もなく1年になります。
陰性感情に気が付いて、反省、時々、ブログにその事例を報告していましたが、もう少ししっかりとエピソード分析の方法に沿って鍛錬してみようと思います。

エピソード「朝ごはん」

娘が朝ごはんを食べています。途中、立ち上がってトイレに行きました。
トイレが終わった後、水槽の魚に餌をあげていたので
私が「ごはんが途中だよ」と言うと席に戻りました。
しばらくして、再び、立ち上がってトイレに行きました。
トイレが終わった後、席にもつかず、食卓に置いてあったジャムの空き容器で遊び始めました。

母 「遊ぶならもう終わり」と、おかずが残る皿を片付けました。
娘 「はーい」 残念そうでもなく答えました。
母 「ごはんを大事にしないなら、今日はお菓子なはいよ」

陰性感情が起きた(私が不適切な行動と思った)のは、ジャムの空き容器で遊び始めたときです。

対処行動
「遊ぶならもう終わり」

ライフタスク
ごはんを食べずに遊んでいること

思考
・なぜごはんを食べないの?
・食べ物を大事にして、残さずに食べてほしいといつも伝えているのになぜ分かってもらえないのだろうか? 
このときの感情は怒り(度合は-4)
 
私的感覚
・ごはんは残さずに食べてほしい

食べ物を大事にすることは共同体感覚に照らし合わせても正しいように思います。残さず食べられるように、食べる前に娘に食べられる量を確認し、その分だけを準備しました。

そういう状況からすると娘が
「食べられるかな~と思ったけれど、お腹がいっぱいになったからお母さん食べて」と答えてくれると嬉しいです=仮想的目標

この仮想的目標は協力的なので、これを実現するために私が考えた代替え案

母:もうお腹がいっぱいなの?残っているこのおかずどうしようか?
娘:食べられるかな~と思ったけれど、お腹がいっぱいになったからお母さん食べて

よし、次に同じようなことが起こったら、この言葉掛けにしてみよう。


様々なことに陰性感情を起こしているように感じているけれど、こんな風にエピソード分析をしていくと、整理されてよく似た事例(エピソード)が出てきても陰性感情を起こさずに優しくきっぱりと対応できるようになるそうです。

その言葉を信じて、エピソード分析をやってみようと思います。



アドラー心理学の考え方が自分には合っていて、自助グループに参加するなどして勉強はしていますが、私は心理学の資格等は一切持っておりません。
この導いたものがアドラー心理学という面から正しいのか正しくないのかは自分さえも分かっておりません。勉強中の身である者のエピソード分析だということをご留意下さい。

自己詐瞞

1年生から2年生になりました。
1年生の学校への持ち物については「親も責任をもって準備して下さい」でしたが、 1年生の3学期の途中から、「親の手を離れ、子どもたち自身で準備ができるようにして下さい。そのために親は見守って下さい」に変わりました(明文化されたわけではありませんが、こんな雰囲気が漂うようになりました)

「親が見守る」これが難しいです。
学校が望む「見守る」は忘れ物なく登校させて下さいという意味でしょうか?

懇談会のときに、「必要最低限として学校で勉強をするために必要なものは持たせて下さい」と言われましたので、私はどうしてもそのように捉えてしまいます。

子どもの性格にもよりますが、「忘れ物」という点においては、心配性の息子の場合、結末から学ぶのが学びが早いように思われるのです。

「忘れても何とかなるわ~」という楽観的に考えられる性格でないので、「忘れた、どうしよう・・・」という不安を感じてしまうのです。その経験は息子には大きく、その不安を再び経験しないように注意できるようになります。

なので、何回か忘れ物を経験し、成長していける=結末から学ぶと思うのですが、「必要最低限として学校で勉強をするために必要なものは持たせて下さい」と言われたこの言葉が私に課せられた学校からの課題のような気がして、

体育のある日に体操服を着ていない息子に「体育があるって言ってなかったっけ?」
週末持ち帰っていた上靴を持っていない息子に「今日は月曜日だからいつもより荷物が多いよ」
と、声を掛けてしまうのです。

これではいつまでも親が声を掛けてくれるということを学ぶだけ、自ら整えることを学ばないので、課題の分離と結末から学んでほしいと思っているのですが、
「必要最低限として学校で勉強をするために必要なものは持たせて下さい」は親の課題だとすると共同の課題として、忘れ物をしないためには家庭内で取り組むしかないのかな~とか思ったりすると言う私に

人生はシンプルで、するかしないかのどちらか
しない理由をつけて見つけ出しあれやこれや言うのは「自己欺瞞」なんですよと先日参加した特殊講義で教えていただきました。

「必要最低限として学校で勉強をするために必要なものは持たせて下さい」が親の課題と感じている私、私の課題ならばそのことについて学校と私が解決するべきこと。

間もなく家庭訪問があるこの時期、この課題を整理するのはちょうどいい。
学校(担任の先生)の意見もお聞きできるし、我が家の考えもお伝えできる

「学校で勉強するために必要なものは息子自らが整えることが自立へとつながる」という目的のため、学校と私とが同じ方向を向いていけるといいな~と思っています。



2016-04-18

すっかり忘れています

以前にも書いた「給食エプロン」

この週末も持ち帰っており、本人が気付くまで放っておこうかと思いましたが、 週末の間に何度か本人自らも気付くチャンスがあり、私からも思い出させようと色々と声掛けをしても、まったく気が付かず、思い出さず、完全に忘れていました。

小学2年生の男の子ってこんなもの?
記憶そのものがすっぽりと消えているほどの忘れっぷりにびっくりです。

その行動が不適切であることは知っており、適切な行動を知っているが、適切な行動をしても望む結果が得られないと信じている取ってもようでもなく、

どちらかというとその行動が不適切であることは知っているが、どうすれば適切な行動ができるのか知らないの方が近いのかな?
思い出したときの「あ!」がとてもシンプルなのです。

きまりきった、宿題をする、明日の準備をするなどの日々の作業については忘れることなく取り組める。それどころか、今日の宿題は「計算ドリル5と6」と詳しいことまでも覚えているのに、給食エプロンや上靴の持ち帰りとかは完全に忘れています。でも、図工に必要なものとかは覚えてたりするので、彼の記憶は私にしたら謎だらけ。

すっぱりと忘れている彼にどのような助けができるのか?と思案中

実は全く覚えていないなんてあり得ないと決めつけて、勇気くじきをしちゃったんですよね・・・。