アドラー心理学「勇気づけ」で
「自分の問題を自分で解決できる能力がある」子どもたちのお手伝いができるよう日々鍛錬中

2016-06-03

言葉ではっきり頼まれたので

娘は幼稚園の延長で体操教室に通っています。
体操教室の道具を用意して持っていくのは娘の課題。そうはいっても、まだ曜日感覚がしっかりと身についていないところもあるので、時々、声掛けをしてお手伝いをしています。

私も娘もすっかり体操教室のことを忘れて、登園してはじめて思い出した母娘。

母「あ、今日、体操教室だった。すっかり忘れてたね」
娘「あ」
母「どうしようか?」
娘「持ってきて」
母「今日は体操服だし、このまま体操教室でできるよ。お母さん、このあと用事があるから持ってくるのは難しいわ」
娘「分かった」

という会話をして、幼稚園をあとにしたのです。

課題の分離で、この通りでも問題ないと思うのです。
娘も忘れたことから学んでくれると思うのだけれど、今回は言葉ではっきり頼まれたな~と思い直して、用事といっても再び幼稚園に忘れ物を届ける時間を作ることは可能だったので、届けることにしました。「お母さん時間ができたから届けにきたよ」という言葉を添えて渡しました。


娘は体操教室の道具をたまたま忘れたので、そのことに陰性感情を持つこともなく、娘の「分かった」にも娘の力を感じて、

ここに私の陰性感情はゼロだったからこそ、普段は仕事で届けるのは無理だけど、今日は届けられるなら、届けてあげようという気持ちになったのです。

野田先生が「陰性感情から抜け出せばさまざまのことができる」ということを補正項に書いておられたが、こういうことなのかな~と思いました。


以前の私は課題の分離が苦行でした。課題の分離、課題の分離と言い聞かせてようやくできたり、結局、課題の分離の重圧(?!)に耐えられずに口出ししたりしていたのですが、少しステップアップしたかなと思っています。

課題の分離ができているので、声掛けをすることはあるけれど、その声掛けに相手がどういう風に対応するかに感情があまり反応しないようになりました。

私の声掛け(アドバイス)を子どもが受け入れようか受け入れまいかにどちらでもいいという感じですかね?アドバイスを受け入れても学んでくれるだろうし、アドバイスを受け入れてくれなくても、結末を経験することで学んでくれるだろう、だからどちらでも親はお手伝いできているかな?と思えるようになったということです。

例えば、この娘とのこのエピソードの後、私が娘に「忘れないように前の日に準備しようか」というアドバイスをしたとして、それを娘が受け入れてくれなくても、受け入れてくれなくてもどちらでもいいということです。
   
  実際はこういうアドバイスをしたわけではなく、
  このエピソードのアフターは
     
     母「今日、忘れてしまったね」    
     娘「そうだね」    
     母「どうしたら覚えていられるかな?」    
     娘「カレンダーに印をつける」    
    
    という話し合いをして、    
    我が家の予定を書き込むカレンダーに   
    体操教室のある日を蛍光ペンで塗りました。



今回の課題の分離は大きな進歩で、色々と波及して違う課題も分離ができるようになって、陰性感情が抜け出せたところもあるけれど、それでも、まだ抜け出せない私がどうしても不適切だと感じて、陰性感情を持つものがあります。

自分の陰性感情に丁寧に向き合ってみた結果、私はどうも子どもには結末がかえってこない場合の自然の結末にまかせることができない課題には陰性感情で持って相手を動かしてしまっています。パセージには子どもと共同の課題を作った方がいいでしょうとありますので、このことについて、また一つ一つステップを踏んでいきたいと思っています。




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