アドラー心理学「勇気づけ」で
「自分の問題を自分で解決できる能力がある」子どもたちのお手伝いができるよう日々鍛錬中

2016-09-27

ソワソワしながらの課題の分離

夜ごはんが終わって7時過ぎ
これからの予定を息子にたずねると、「明日の準備をして、お風呂入って、ゲームをする」とのこと。ゲームは遅くても8時には終えることになっているので、それだけを伝えて、私は宿題の丸付け、夜ごはんの片付けなどしながらも、7時15分過ぎるとソワソワしてきました。

その時の私は
「もう15分、明日の準備はいつ始めるのかな?お風呂に入って、ゲームをするなら急いだ方がいいのに」
「時間がないことに気が付いて、ゲームができなかったといじけるかもな」
「いじけたらグジグジ言うし面倒だな」
こんな風に考えておりました。

私は今までの息子の行動パターンから先に起こることを勝手に予想して、面倒が起きるかもしれないことを避けたいんですね。

これって、私の課題です。

気が付いたのだから、気持ちから課題の分離をして、ソワソワせずに見守ることできたらアドレリアンなんだろうけれど、まだまだの私は「早く行動してくれないかなー」と念じながらの見守りです。

そんな気持ちを察してくれるわけでもなく、息子は本を読んだり、妹と遊んだり(ケンカ?)して、時間は過ぎていきましたが、7時25分ごろに、パッとスイッチを切り替えて、明日の準備、お風呂と進めていきました。

30分近くゲームをする時間があったので、約束の8時にゲームを気持ちよく終了し、心穏やかに就寝時間まで過ごすことができました。


息子は息子なりの経験を踏んで、時間を読んでいるんでしょう。
私の時間測とは少し違うけれど、それはそれでよし。

先輩のアドレリアンさんは、こういうときに「子どもはどうするだろうか」とワクワクするそうです。
そこまでの気持ちに辿り着けたら、本当の本当の課題の分離。
それを目標に私も頑張ろう!





翌朝にもこんなことがありました。
夜な夜な、ポケモンGoでポケモンを捕まえに散歩に出ていたダンナさんが、「新しいポケモンを捕まえた!」と息子に報告したところ、

子 「ポケモンGoを見たい」
母 「用意をして時間があるならいいんじゃないですか」

ならばと急いで準備をして出発するのみになったところで、出発時間までの残り時間をタイマーにセットしました。
ちゃんと登校する時間を考えて行動している!
自立の道を歩んでいることを実感させていただきました。

2016-09-23

仕切り直しの「課題の分離」

運動会も終わっても連休で、日常とは少し違う雰囲気ではありますが、21日は登校。

学校、幼稚園で使った給食セットについては

子どもたちは夕飯の後片付けの洗いものまでに出せば、お母さんが洗います。
給食セットを出し忘れることがあるので、お母さんが覚えていたら、「洗いものをスタートすること」をお伝えしますが、お母さんも忘れることもあるので、子どもたち自身が覚えておいて下さい。
もし、この時間に一緒に洗えないときは、自分たちで洗って下さい。

これが、子どもたちと相談して決めたこと。
私が声掛けするのが7割、自分たちから忘れず出すのが2割、忘れて自分たちで洗うが1割で日々進んでおります。

そして、21日(水)、翌日は秋分の日で祭日
私が伝えるのを忘れて、子どもたち自身も忘れているのに気が付いた祭日

忘れていることを伝えるべきか、伝えないべきかを考えて、伝えないことを選択しました。

伝えないことを選んだ理由は 陰性感情がゼロだという自信が私になかったことと、子どもたちに学んでほしいことは別にあると思ったこと、この2点

今でも迷うことがあるけれど、アドラー心理学パセージの心理面の目標の一つである「人々は私の仲間だ」に重点をおき、今、この時に仲間であろうとすると、忘れることを伝えたり、親からが自ら洗うことだったりするのかもしれないけれど、それは「今」その時は仲間になれるのかもしれないけれど、「未来」の時点に思いを馳せると、自分(子ども)自身ができることを親が肩代わりし、学ぶ機会を失ったことになるのかもしれません。

ということで、洗えていない給食袋を「見なかったこと」にし、で伝えないことにし、23日(金)の朝を迎えました。

すると、息子は自分で洗い、ちゃんと準備しておりました。
ただただモクモクと、当たり前のように。

母「あ、きれいなのをちゃんと準備したのね」
子「うん」

こういうことでいいんだと思います。



2016-09-17

運動会終了、課題の分離

天気が心配でしたが、無事に運動会が終わりました。
9月に入り、「天気に限らず体操服で登校すること」と学校から案内がありましたが、毎朝、毎朝、毎朝、普段の服を取り出し、着替えようとする息子に、「体操服でしょ」と言い続けておりました。

はじめの2、3日は「忘れているんだな」と陰性感情はなく、
しかし、4、5日経つと、「また・・・」「いいかげんに覚えなよ・・・」と陰性感情

しかし1週間を過ぎる頃からは、運動会までお伝えすることを自分自身で決めましたので、陰性感情はありませんでした。

言い続けているから、息子は「お母さんが言ってくれるから」を学んだんだろうな~と思ったのですが、運動会が終わるまではこのままで、課題の分離はその後にしようと思ったわけです。

息子は運動会を楽しみにしている様子がなく、練習が休めるなら休みたいと思っているところがあったのです。運動が苦手な私もその気持ちはよく分かり、よく分かるからこそ、安易に休める状況を作ってはいけないという気持ちもありました。


しかし、息子自身の課題にいつまでも関わるわけにはいきませんので、4月の終わりに丁寧に課題の分離をしたように、もう一度、取り組み直しです。

あの時は「よし、気持ちからの課題の分離ができるようになった!」と思ったんですけどね、夏休みを間にはさんで、私の気持ちも後退しているようです。



2016-09-15

帽子がない

幼稚園に行く日の朝。その日はいつもより30分ほど出発時間が遅く、年長の娘が「用意ができたからテレビ見ていい?」と聞いてきたので、「いいよ」と答えて、彼女はテレビを見ながら出発までの時間を過ごしていました。

出発時間がきたので、「行くよー」と声を掛けて、待っていると、「帽子がない・・・」と。

私「どこいっちゃったの?」
娘「ここにあった」
私「じゃあ、探してみたら」
としばらく探しても見つからなかったので、「帽子がないよー」と泣き出しました。

この時の私は「今ごろ何を言ってるの?用意ができたって言ったよね?時間ないんだけど」と陰性感情。時間がない今、問い詰めても仕方がないのは分かっているものの、








陰性感情のまま、


私「どうするの?」
娘「探す」
私「探してもなかったでしょ、幼稚園に帽子を忘れてきたかもよ」
娘「絶対、あったよ。帽子がなかったら、お外で遊べないもん、お母さんも一緒に探して!」と絶叫。


私も探しても見つからないし、時間もないし、「探してもみつからないんだし、幼稚園にあるかも」と説き伏せて出発しました。陰性感情を抱えていましたので、送り出してから、色々と考えてみました、娘に何を学んでほしいかを。


・ちゃんと片付けよう
・用意をしたというのはどういうことなのかを学ぼう


もちろん、こういうことも大事なんだけど、ストンと納得できなくて、考え直してみると「こういう問題に直面した時に、娘は娘なりに考えて乗り越えてほしい」という答えに辿り着きました。


そのための手段が、片付けるだったり、ちゃんと用意するだったり、帽子がないことを先生にちゃんと説明したりなわけで、他にも彼女が考える解決方法が社会で暮らす中で認められるものならばそれでいい。そういう風な答えに辿り着くと、彼女はいい経験をしていると、見届けられる気がします。今回の私の「どうするの?」は怒り口調だったけれど、次回は冷静に声を掛けよう。



ちなみに帽子は幼稚園に忘れてきてました。
「あってよかったねー」と言うと、「絶対あるは昨日の昨日の話しやったわ」と娘。





2016-09-09

朝の時間(テレビ)

朝の時間において、平日の朝にテレビを見ることになぜ私はモヤモヤするんだろうと色々と考えてみました。

1)朝に限らず、ただただテレビが流れているという環境は好きではない
2)特に朝においては、テレビを見ることによって、しなければならないことが進まず、結果、遅刻や忘れ物などが起こりそうなのが不安

私はこれを回避したいわけですから、その目的に向かって、子どもたちと話し合おうと、でも、これはあくまで私の気持ち。共同体感覚に反しているわけではないのですから、私の意見は意見としてわかるように言った方がいいし、

子どもには子どもなりにテレビを見たいと気持ちがあるので、共同の課題にするならば、お願い口調で頼んでみる


母 「テレビで何を見たかったのかな?」
子 「天気」
母 「お母さんは、ただずっとテレビがついていると落ち着かないんだよね、天気が確認できたら、消してもらっていいかな?」

こんな感じならば、1)のただただテレビが流れている環境は好きではないということから回避できるかも。


2)については私の不安なので、「課題の分離」で考えた方がいいのかもしれません。

子どもたちが本当に見たいテレビを朝の時間に見ることにおいて、起きるか起きないか分からないことに想いを馳せる必要がないのかもしれません。そうして先に回避することは、反対に朝の時間を自分自身で管理することを学ぶ機会を失うことになっているのかもしれませんね。

1)の対処方法で共同の課題にならず、子どもたちがテレビを見たいと行動したときは、子どもたちはちゃんと時間を管理できると信じて、「課題の分離」で見守ろうと思います。

2016-09-03

朝の時間

子どもたち、朝は比較的強くて(目覚ましよりも早く起きたり、目覚ましで起きたり、たまに声を掛ける必要がある時間でも、少しの声掛けで起きます)、今のところ起床においては陰性感情を持つことはほとんどありません。

ただ、朝を起きて、時間があった時に子どもたちが思うことはゲームかテレビのようで、これが私の私的感覚を刺激します。

私の育った環境は、ゲームは別として、朝にテレビをつけることがなかったんです。
朝にテレビを見るか見ないかはそれぞれの家庭の判断でよし。
しかし、私はどうしても平日の朝にテレビを見るということにはモヤモヤしてしまいます。

「平日の朝にテレビを見る」ということは共同体感覚には反していないけれど、私的感覚を刺激するというのが正しいところでしょうか?
ダンナも朝にテレビを見るという感覚は持ち合わせておらず、結婚してもここに問題が起きなかったけれど、子どもが大きくなって、「平日の朝にテレビを見る」ということに関して、私的感覚が違う者同士が暮らすことになりました。

さ、どうしましょう。