アドラー心理学「勇気づけ」で
「自分の問題を自分で解決できる能力がある」子どもたちのお手伝いができるよう日々鍛錬中

2016-10-28

競合的「私は正しい、あなたは間違っている」

陰性感情に向き合い、自分なりにその時の私自身の考え、構えとも向き合って、幾度となく自分自身を正当化してみたりもしたけれど、私が抱く多くの陰性感情が競合的であることにようやく腑に落ちました。


例えば、

朝の準備をせずに本を読んでいる息子を見て、
「学校に行く時間なのに、なぜ今、本を読むの?準備をする時間でしょ」と陰性感情を持ちました。
この時間に本を読むという行動をしているべきではない、息子は間違っている、私は正しい、と競合的です。

ダラダラとご飯を食べている娘を見て、
「ダラダラしてないで早く食べなさい」と陰性感情を持ちました。
ご飯はダラダラと食べるべきではない、娘は間違っている、私は正しい、と競合的です。

子どもと3人でお風呂に入っているとき、2人がケンカを始めました。
ゆっくり入りたかった私は何度かケンカをやめてほしいとお願いしましたが、聞き入れてもらえなかったので、
「もういい、何度いったら分かるの」と陰性感情を持ちました。
私が何度もお願いをしているのに、子どもたちはなぜそのお願いを聞き入れないのか、と競合的です。

陰性感情のままで口に出すこともありますし、冷静に立ち止まれることもありますが、何れにしても私自身の考えと構えは競合的です。そして、競合的であることにようやく気が付くことができたのです。

競合的であることに気が付けたら、協力的目標に替えていく。


朝の準備をせずに本を読んでいる息子、
でも、振り返れば、私は息子はちゃんと朝の時間の過ごし方を知っているのを知っています。
ただ、今日は本に夢中になり過ぎて、時間を忘れているかもしれませんので、私が協力的になれるのは、「今、40分だよ」と声を掛けることだと思い直しました。

私 「今、40分だよ」
子 「あと5分ある」
私 「そう、5分後に自分で気が付ける?それともお母さんが声掛けしようか?」
子 「お母さん、声掛けして」
私 「お母さんも忘れてしまうかもしれないから、5分のタイマーしておくね」
子 「お願い」

私は声掛けをし、共同の課題にする選択をしましたが、課題の分離で声掛けをしないという選択もあると思います。この選択については、それぞれの親子の関係と、成長の段階と、色々と考えながら、子育ての目的に進んでいて、陰性感情がなければどちらの選択でも構わない。競合的な私は、私と違う方法で子育ての目的に進んでいこうとするアドラーの仲間にも「それで本当に正しいの?」と裁いていたことにも気が付きました。穴があったら入りたい。

このエピソードについては、協力的目標と代替案が見つかることができましたが、ダラダラとごはんを食べる娘と兄妹ケンカをする子どもたちについての協力的目標と代替案はモヤモヤの中。どっぷりと競合的な私を生きてきた者としては急激に変われないので、ゆっくりと落ち着いて考えてみたいと思います。


2016-10-23

代替案(ブレイクスルー・クエスチョン)

「娘が大事なものをなくした」エピソードの自己分析です。
エピソード分析は私には難しいので、ブレイクスルー・クエスチョンで。

1)子どもが不適切行動をしているときの適切な面を探す
・失くしたことを正直に話した
・探そうと思っている

2)子どもが何を学んでもらいたいかを考える
・自分の失敗は認め、回復するように頑張る

3)パセージを使って、どのように対処するかを考える
・12-L 失敗は不適切な行動ではありません
娘は大事なものをなくそうという意図があったわけではありません。冷静ではなかったけれど、その時の状況を聞くと、「箱から出してここに置いておいて、後から片付けようと思っていたけど、忘れてしまった。ここに置いたはずなのにない」と教えてくれました。
こういうことって、自分自身に置き換えたらありますね。
悪い意図があったわけではないのだから、冷静にその時の状況を聞いて、見つけてほしいことを伝える

本当はこのアイデアがダメならもう一つと二つの対処行動を考えるのだけれど、もう一つは自分だけでは考えられそうにありません。

ただ、結局、娘の失敗=ものを失くしたことを、私が解決した=私が探して見つけたのはよかったのだろうか?とモヤモヤしています。
失敗してもお母さんが解決してくれたを経験したわけですから、やはり、娘が主体性を持って見付けた方がよかったかな。そういう意味では課題の分離を経て、共同の課題というちゃんと段取りをした方がいいとも考えています。

翌日に見付けたことを伝えたときに、娘が「ありがとう」と言ったことを思うと、自分がみつけるという責任はちゃんと感じてくれていたようにも思います。となると、娘はすでに私が学んでほしいと願っている「自分の失敗は認め、回復するように頑張る」は学んでいるのか!!!振り返ったからこそ気付けました、娘の成長。




2016-10-21

粘土ワーク

母と私の関係は「そこそこ」と私は思っています。
協力できることはお互いに協力している感じです。
好きとか嫌いとかそういう感情をあまり意識することはありませんが、それなりに心配ですし、元気でいてほしいとも願っています。困ったときは助けるつもりもあります。


さて、先日、粘土ワークに参加しました。
6歳のころの自分を思い出しながら、家族の一場面を粘土で表現しました。
その後、グループの方と色々と家族について語るのですが、
私が作ったその粘土の作品を見て、「お母さんに甘えてて優しい雰囲気です」と抱いて下さった感想にとてもモヤモヤしました。モヤモヤしたというよりも反発を覚えた感じです。


私が作った作品は「夜ごはん後の少しゆっくりしている時間」の場面です。
確かに私は母の膝に座っていて、抱いて下さった感想はごもっともなんですけれど、「これが甘えられた唯一の時間なの」と訴えたかったんです。

母は家で仕事をしていて、仕事をしているときはもちろん遊んでもらえなくって、姿はそこにあるけれど、気持ち的には近くない。6歳のころの私にとって、母は甘えられる存在ではなかったのかもしれません。反対にもっと甘えたかったという気持ちがあるのかもしれません。

ただこの時の気持ちは、7歳、5歳の子どもを育てている今、大きく関わっている気がします。
「甘えたかった」私がいるのにも関わらず、私は子どもたちからの「甘え」を許容できていない気もします。

子どもを産んでから、色々な局面で、私が我が子に抱く気持ちがとても冷静に感じてしまうとき、「私に母性というものがあるのだろうか?」と自問自答することがあります。そんな自問自答を繰り返し、辿りついた答えは、私の子育てはは「母性」からではなく「責任感」からのモチベーションの方がしっくりとくるんです。
「母性」という定義が曖昧ではあるけれど、私の母性を自分自身が理解も体感もできてない気がしていて、これが私の不安だったりもして・・・

何だかまとまりのない文章だけれど、

母は子どもにとって存在が大きいってこと、いい意味でも悪い意味でも。
そして6歳のころの私をずっと抱えて成長しているんだろうな、いい意味でも悪い意味でも。

粘土ワークに参加して、自分と向き合う機会になりました。

 
 

2016-10-20

大反省

娘が私の大事にしているものをなくしました。
大事にしていること、触るのはいいけれど必ず元の場所に戻しておくこと、これをしっかり伝えていたのだけれど・・・

触って、後で片付けようと思ってここに置いておいた、でも、置いておいた場所にないと言い、悪びれた様子も見られず、私、大噴火。

「大事にしているものだから、大事にしてねと言ったよね」
「あなたはなぜ物を大事にしないの」
「こうして片付けないから物をなくすのよ」
「今すぐ探しなさい」
と鬼の形相で矢継ぎ早に責め立て、

泣く娘に「泣かずに探しなさい」と追い討ちです。

こんな風に追い討ちをかけながらも頭のどこかでアドラーではないことは分かっている。反対に分かってるから、いつも「またできなかった」と大反省の繰り返し。

少し冷静になって、日常戻って、娘が寝た後に、もう一度探したら見つかりました。

翌日、
私  「見つかったよ、よかった。これからは本当に大事にしてね」
娘  「分かった」

そして、あ、そうだという雰囲気で、
娘   「見つけてくれてありがとう」

こんな時でもちゃんと感謝できる娘、すごいな。
仲直りのギュギュと怒り過ぎたことを謝りました。

今回のことで、娘はものを大事にすることを学ぶよりも、怒りで人を動かすことを学んでいるんだろうな。ちゃんと伝えたいことは陰性感情を持って伝えても伝わらない。
怒りで人を動かそうとする、私の悪い癖。自覚できているのに、抜け出せない。