アドラー心理学「勇気づけ」で
「自分の問題を自分で解決できる能力がある」子どもたちのお手伝いができるよう日々鍛錬中

2016-11-28

ゲーム(メディア)との付き合い方

息子の待ちに待ったゲームが発売されました。

我が家にはゲームのルールがあります。
このゲームのルールは話し合って決めたもの。守ってこそルールなわけで例外を認めるのもおかしいと思いながらも、待ちに待ったゲームをその決めたゲームの時間を超えて楽しみたい息子の気持ちはよく分かる。

分かるからこそ、ゲームの時間を守るように伝えるのには少しモヤモヤしました。なんだかいじわるしているような気がして・・・。本当に待ちわびていたのをずっと見ていたのでね。


このモヤモヤを今一度確かめることにしました。

例えば、ゲーム、テレビ、パソコン(タブレット)などを特にルールを設けないで、子どもたちの意思の通りに付き合うとすると、テレビはまるでBGMのように流れ、ゲームもそれほどしたいわけでもないのに暇だからという理由で続けることが予想されます。予想なので、この通りになるのかどうかはもちろん分かりませんが、予想のようなことが起こった場合、私は陰性感情を持つと思います。「いいかげんにしなさい!」と叱る私が目に浮かびます。

私は子どもたちがゲーム、テレビ、パソコン(タブレット)と付き合うのに、ある程度、節度を持ってほしいと願っています。依存する可能性があるこれらの機器に翻弄されるのではなく、子ども自身の明確な意思を持って付き合ってほしいわけです。これはある意味、自立する、社会と調和して暮らすにもつながるのかなっと思っています。


私が育った時代と今とではもちろんこれらの機器を取り巻く環境は大きく違っています。
でも、人が人として育つために、必要なものというのは根本はそれほど大きく違っていないとも思います。
身近にあって当たり前だからこそ、好きなように関わってもいいのか?と自問自答すると、そうではないだろうとも思います。子どもが育っていく時間数は、昔も今も1日24時間で変わりなく、その時間をどのように過ごすのかを考えたとき、ゲーム、テレビ、パソコン(タブレット)と接する時間もあってもいいけれど、それ以外の時間も持ってほしいと考えています。「暇だな~何をしようかな・・・あ、そうだ!」とこんな風に考えて自分から遊びを考え、行動する時間をいっぱい持ってほしいのです。

ゲームをし続けたい息子は真剣です。それに対峙するためにも、「なんとなく」ではなく、私の目的も明確にして応えないと。それに私の考え=目的もはっきりしていれば、モヤモヤする気持ちも晴れると思います。

2016-11-18

ごはんは残さず食べる

娘のごはんの課題はもう一つあります。
私は「ごはんは残さず食べる」という考え=私的感覚を強く持っています。
強く、というのは、家族以外の方達と外食する経験を幾度となく繰り返して、感じたものです。

幸い、ダンナとは同じ私的感覚で衝突することはほとんどありませんが、この私的感覚の強さから、子どもたちとは度々衝突します、特に、娘と。

衝突を回避するために色々と対処してきました。

例えば、 (いー=娘)
その1
私「いーちゃん、これ食べる?」
娘「うん」

その2
私「いーちゃん、どれくらい食べる?」
娘「ふつう」
私「これくらいでどう?」とお皿に盛った量を見て確認する。

それでも尚、時々、お腹がいっぱいになっちゃったとか、思ってた味と違ったとか、残すことがあります。

でも、私は「ごはんは残さず食べる」ことに強い想いがあるので、食べると言ったのに食べないという娘の行動に−4とか−5の強い陰性感情を持ちます。

ただ、その強さゆえに、「ごはんは残さず食べる」ことを絶対的な目的としていました。「許しません」の勢いです。それが衝突を生むわけで、0か100かの白黒はっきりでなく、グレーを目的にすることにしました。

私はお腹がいっぱいでも、自分の私的感覚から、少々無理してでも残さず食べるよう努力しますが、「ごはんは残さず食べる」ことへの想いの度合いは人それぞれで、またその努力の度合いもそれぞれでだからこそグレーでいいのかなっと。

「ごはんは残さず食べる」ことへの私の想いは私の意見として伝え、目的の達成は人それぞれでいいのかな。

どうしても、するかしないかについて、すること=適切な行動には気付き難く、ごはんは残さず食べるにしても、他にも気になる、ゴミをゴミ箱に捨てるも、使わない電気は消すも、しなかったことには自然と気付くんですよねー。でも、必ず、気が付いていなくても、これに限らずちゃんと適切な行動をしている時があるんです、そこに注目を。





2016-11-11

笹の舟で海をわたる

 
 
角田光代さんの「笹の舟で海をわたる」を読みました。
戦争を経験した方とそうでない方とでは全くもって感想が違うのかもしれませんが、淡々とした話という感想です。
 
そんな本ですが、ここで記事にすることにした理由は、母と子どもたちとの関係を色々と考えたからです。
 
ネタバレになるので内容は書きませんが、戦争を経験した母とその子どもたち、育った時代背景が異なり、それぞれが持つ価値観が大きく異なるような気がします。戦争が要というよりもあの時代は普通だった家制度や男女という考えから、今の時代の変化は、その時代に育ったものと大きな価値観の違いを生み、そして、親子でその価値観(私的感覚)を衝突させてしまうことがあるのかな・・・と思いました。
 
母は戦後生まれですが、長男と結婚し、姑と同居。私も祖母と一緒に過ごして大きくなりました。
そこにはもちろん姑とのいざこざがあり、私にとってそのいざこざは嫌な記憶として残っております。また、兄妹で、男はこうで、女はこうでと育てられ、女の子だからという理由で申しつけられることが不可解でした。
 
母が育った環境ではその価値観は当たり前で揺るぎないもの、でも、その子どもたちが育つ環境ではその価値観は大きく変わり、その価値観の違いをお互い認めることなく、話し合うことなく、一方的に押し付けていくと、私的感覚が大きく異なる親子は衝突するのだろうなと思いました。
 
私の母と私についていえば、「そういう考えなんだな」とお互いにいつの頃か割り切ったところがあって、今でも、先祖への想いの馳せ方などで大きく意見が異なるけれど、その話は「ま、いいわ」と大きく衝突する前にストップしています。
 
家族間だけでなく、もちろん社会でも、それぞれが持つ私的感覚は違って当たり前。
正しいとか正しくないとかは共同体感覚に照らし合わせ、それが私的感覚だと思えば、「私個人の意見」と意見は意見だと伝えていく、これもパセージで学んだ大事なことの一つです。
 
 
 


2016-11-04

勇気づけの構え

ご飯をダラダラと食べる娘に陰性感情を持つその目的は何か?と自問自答したところ、
「ご飯をササッと食べてもらって、片付けを始めたい」という自分自身のために陰性感情を持って娘を動かそうとしていることに気が付きました。

ダラダラしているように感じるのは、私の目線。
ご飯で遊んでいるわけでもなく、テレビを見ながら食べているわけではなく、ゆっくりと食べている娘は色々と思いながら、食事をしているのでしょう。それを邪魔するのは協力的とは思えません。

だからといって、1時間近くも食事を楽しまれると、後片付けが全く進みません。
後片付けを始めたい私に協力をしていただきたいと願っています。

「早く片付けたいから、早く食べて」では競合的で
「何時までにご飯食べ終えられるかな?」の質問ならば協力的になるでしょうか?


私の希望に合わせてもらうのではなく、2人で折り合いをつけながら生活すること。一緒に生活を営む者として必要なことだと思います。それを目標にするならば、協力的といえるような気がします。どの言葉を言うにしても、「私の希望の時間までに食べなさい」という構えでは競合的。
まずはその構えが変えられるかが勇気づけか勇気くじきかの違いになるのかな。



先の記事にも書いた「自分のことは自分でして下さい」という言葉にしても、

子どもが自立に向かうための目的でいうのと、
なんで、自分のことは自分でしないの、できるでしょと、できることをしない子どもを責めているならば、同じ言葉でも全く違うように伝わるように感じています。

相手を想っての言葉なのか、自分自身のための言葉なのか、構えというのはちゃんと言葉にのって伝わります。

パセージ、パセージプラスの中で、リーダーさん、先輩アドレリアンさんからたくさん教えていただいた構えの違いについてあの時は「????」だったけれど、ここにきてようやく分かったような気がします。





2016-11-03

口先アドラー

アドラー心理学の構えを身に付けることは日々の毎日まいにちの稽古の結果、「身体の技」として成就するものと野田先生が補正項で書いておられます。

その通りだなーとしみじみ感じております。
振り返ってみると、春頃にも私は自分の構えが変わったと思っていました。でも、気を抜くとすぐに構えが競合的になります。部活に励んでいた学生時代、1日休めば3日後退すると言われていたことを思い出しました。

そして、競合的であると自覚しても尚、やはりすぐに変われるものではないですね・・・。
これも自分の苦手なところを自覚しても、すぐには克服できるものではない、毎日の稽古でこそ、その克服ができるのでしょうね。


見せかけでアドラーらしい言葉掛けはできても、それは口先アドラー。

子どもたちが「お茶」と言うのに対して、
冷静に対処できるときもあれば、
忙しく動き回っているときに

子「お茶入れて」
母「自分でして下さい」

文章にすれば同じ言葉、でも、構えが違うと全く違うということをパッセージでもシミュレーションして学ぶのに、気を抜くと、すぐに競合的になってしまいます。口先アドラーから卒業するため、構え変える。そのための共同体感覚。

共同体感覚に基づく勇気づけ、何となくだけど、「ダラダラとごはんを食べる娘」と「兄妹ケンカをする子どもたち」への代替案はちょこっと光が見えてきた気がします。

こういう言葉なら勇気づけになるかな?と思っていることはあるのだけれど、まだ、構えが競合的であるので、その言葉もまだ残しているところ。